コロの死
4月30日新月、8年一緒に暮らした柴犬のコロが突然死んでしまった。
私は文字通り、全身が打ちひしがれて、後頭部が痛くて、重くて、動けなくなってた。
いつもの海散歩もコロがいないのが悲しくて、行けなくなっていた。
いつもの隣の浜へ家族と残されたシロと目指すも涙が出てくる。
ふわふわのコロが可愛くて大好きだった。コロはツンデレだったけど、私に一番なついて甘えた。
興奮して背中を丸めて走るコロ。脱走癖があり、海まで疾風のごとく駆け抜け、すごいバネで跳ねた。
コロを自分の一部にして生きる。その野生を引き継ぎ、私は躍動する。
ちょうど同じ頃子宮摘出の手術をしたKOKOさんのBlogにこうあった。
“Bittersweet : how sorrow and longing make us whole” の著書や「内向的な人が秘めている力」のTEDトークで有名なスーザン・ケインのインタビュー記事をたまたま読んだ。
楽観的で力強く前向きなものが重宝される時代において
悲しみや憂鬱、苦痛は良くないものと見なされがちだけれど
実はそれこそが大事なものに気づかせてくれる原動力であり
つながりや愛や慈しみの源泉であり
不完全で完全な魂へと成熟させてくれるものだ
と歴史は物語っている、とケイン氏は述べている
現に迷走神経(脳幹を喉と腹部に接続し、消化、呼吸、心拍数の原因となる神経の集合体)は
悲しみに直面したときに発揮される思いやりの感情
子どもを守りたいという母性や生き延びようとする直感
心地よいものを求める欲求とも深く連動している、とも。だから悲しみ、喜び、生き生きさ
これらは全て一つの壮大な命の経験のタペストリーの断片であって、どれが欠けていても、命という作品にはならない悲しみを優しい眼差しで味わった時にこそ
心を揺さぶる普遍的なクリエイションが生まれ
それこそが神聖であり、崇高なものとなるヘブライ語でコンパッションの語源は、
「ともに苦悩すること」suffer together だそう
私たちは人類特有の悲しみの感情をもっと共振させることで
つながり合い、愛と慈しみと豊かさを手にすることができる”
悲しみは腹と喉の奥をつまらせる。涙でそれを搾り出すたびに、頭の後頭部の下のほうが刺激を受ける。脳幹って、たぶんあの辺なんだろう、と思った。
まだ8歳だったコロ。身体のコントロールが効かなくなり、脳の障害ではないかと診断された。
どんないのちも死に向かっているが、急にその時が来ることもある。
Dance Contains "Good bye, Good Day."
歌って踊って生きると言うと陽気で明るいイメージがあるが、悲しみや苦しみともダンスをする。楽しく美しいだけではない、生きるということを歌って踊ることで深く味わい、自分を励まし、癒している。
私は今日の最善を、愛を持って生きる。