『すずめの戸締まり』を見た。
私は東日本大震災を東京で被災し、地震のアラートに怯えていた時期もあったが、11年がたち、日常はいまここ、恐れから解放されている。
当時4歳だった子が16歳になっている、というように、景色の描き方も含めあまりにリアルな設定は見るのが苦しい人もいるだろうが、この映画によって癒される人もまたいるだろうと想像した。
劇中では人が放置したような廃墟から”みみず”と呼ばれる龍のような巨大なエネルギーが湧き上がり、地震が起きる。
地震は「溜め込まれたエネルギーの解放という現象のひとつ」でしかないのだろう。
「日本列島は青年期を終え、老年期に入っているように感じる」「何かを始める時は地鎮祭などやるのに、終わる時はなにもしないのが不思議に思う」といった新海誠監督のインタビューを読んで、今だからこその「儀礼」の必要性と意味を改めて考えさせられた。
大地に、いのちに、感謝し、祈る。
祈りの場をつくる際には、まず清める。掃除する。
人間は好奇心が強すぎるから、やりすぎる。
人為というエネルギー。人為に人為を重ねるサガ。
そして、後始末という人為は一番最後に必要なんだ。責任をとるということ。
我が家には夫のおじいさんの代で、まだゴミ処理システムが確立されていなかったころの農業ごみが、捨てられている場所がある。
我が家だけでなく、この村中にそのような場所があるし、現在進行形でもその頃と同じように野に農業ごみを捨てる習慣も、見る限り残っていそうだ。
それらに気づくたびに胸が痛む、なんとかしなければ、という気持ちにさせられる。
また、数年前に我が家の竹林の隣地との境界が重機でズタボロにされたのだが、そこもそのまま。後始末はどうしたものか頭を抱える。
過去にダムのことを書いたが、作り過ぎたダムを壊すこともその一つ。
先日静岡で「大地の再生」の実践者の方と竹林で話す機会があり、水の滞りをなくすことがいかに多様ないのちにとって大事か、改めて知らされた。
今、資本主義社会は限界にきている。
後始末をどうしていくのか。この営みには、心を込めた、感謝と祈りが、在るのか。