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地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

ライ麦の失敗、罪悪感から他者を責めること

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年前に地元の園芸やさんで手に入れた「たねの森」のライ麦ライ麦料理なんてしたことのない、パンもろくに焼けないくせに、麦とか育ててみたいという好奇心、固定種のみを扱う「たねの森」カミさん夫妻への共感、緑肥にもなるという理由でライ麦を私は買って、蒔いた。「自らが蒔いたタネ」というのはその慣用句の言う通りで、物理的に芽をだしてぐんぐん育ち、最後にはたくさん実をつけ、自分で蒔いたタネの行く末をどうにかしなくてはならない状況になった。ムギは6月ごろの刈り取りである。しかし、梅仕事に精を出しすぎて、畑を放置気味だった2018年、長雨も重なり、刈り取りの時期が遅すぎた。しかも、明日こそは刈り取ろう!と夫と予定していた午前中に私は急遽ムスメさんの学校関係の用事を入れてしまった。子供のことは優先度は何より高い。夫は一人で作業することになったが、時期が遅く、高い湿度でカビっぽく、量が多いライ麦を前に、それらを食べるのは危険かもしれないし、倒すしかないと思い至った。昨年は両手で抱えられるほどだったライ麦が、今年はその10倍以上に増えていた。

 

ここのところ「畑をやるということは、料理するということ」を信条にしてきた私には、食べずに捨てるのがあまりに心苦しかった。自分で蒔いたタネ、刈り取りの際に不在にしたことも、罪悪感いっぱいで苦しかった。

 

罪悪感の強さは、責任感の強さなのではないかと思った。一度関わったいのちに責任を持ちたい。ライ麦を一粒も食べない自分を責める。責任を重く感じる罪の意識は苦しい。

 

うまくいかないことがあると「私だけのせいじゃない」とすぐに考え出すのが癖だ。苦しみをインスタントに軽減する方法のひとつが、ロジカルに「自分以外の誰かのせい」を見出すことだ。苦しみから逃れたいというニーズは誰にもあるが、今の私はそれを「他人を責める原動力」に変えてしまっていると気づいた。私は自分のことも責めていたが、夫のことも責めていた。「ライ麦をあんなに広く蒔いたのは私じゃない」「あなたも料理の仕方も知らないのに」というような理由を見つけて。それが夫を苦しめていた。関係性が辛いものになり、何を言ってもギクシャクし、互いに消耗する。誰かを責めるのはもうやめたい。

 

これからは、まず感情や身体の感じを味わうというやり方を試してみたほうがいいかもしれない。マインドフルとはそのことか。

ライ麦をとにかくどうにかしようと対策し、行動することしか頭になかった。事実、それはいつかしなくてはならないことだが。しかしその前に、今を味わい尽くす。私はつらい。苦しい。罪悪感でいっぱい、ライ麦と思ってた関係になれず悲しい。自分の無力さに落胆している。後悔している。ごめんなさい。許してください。

その際は一人になることも大事だ。夫に自分の気持ちを知ってもらいたいとか、共感してほしいなどと望む前に、自己共感である。この文章はすべて夫に話してギクシャクしつつスッキリした後に書いているが、私の場合最初から書くのがたぶん最善策。

 

ギクシャクしつつ夫と話す中でも発見がいくつもあった。これは感情というより、ロジカルな理解が深まったことによるスッキリ感をもたらした。

そもそも私たちの畑は実験的である。慣行農法をしていた義父から譲り受けて4年、エネルギーを少なく、生態系にならい人間が畑をやるにはどうすればバランスがよいのか。耕すのか、耕さないのか。除草するのか、するならどの程度か。そんなことをウエコロジーの背景の畑で試行錯誤している。ムギはナチュラルトラクターと言われるほど、土壌を耕すのと同然の効果があるとも言われている。ライ麦がこの土地に合うとわかったし、土壌も耕せただけでも”収穫”はあるのだ。そしてほぼ素人の私が失敗するのは当然。失敗を糧にするしかない。

 

また「ウエコロジーの背景」というのが一つの味噌だということ。(店の後ろに畑がある)お父さんが余るほど野菜を作る我が家で私たちが食べ物を多く作る必要性は実はあまりない。そもそも、野菜はなんだって買えば済むものである。上記の通り「人間にとっての行為とはなにか、それが美しいのか」を体感する場なのである。私は「畑をやるってことは料理すること」にこだわりすぎていたことにも気づいた。それも豊かすぎる(余らせる)ことへの罪悪感からきていることにも。

 

そして夫はフードロスプロジェクトは都会など人間社会のサイクルの中では特にやるべきであって、田舎には土があり、菌や虫など他の生物もたくさん利用してくれるんだから、とも説いた。それはその通りで、魚醤の時も、梅の時も同じことを考えた。

 

具体的なアクションとしては穂と藁を分けている。それにしても量が多く、カビっぽく食べられるか微妙なので全てを分別するモチベーションが続かない。「畑をやるってことは料理すること」改め「食べたい!は最大のモチベーション」。そしてやはり多いと雑になる。足るを知り、子どもやほかの生命体も世話する身で時間は有限であることを改めて知る。

 

穂(種)を放置すればネズミは寄ってくるだろうし、そこらじゅうにまたライ麦が生えちゃう可能性もある。種は取扱注意。田舎に住んで身につけた知恵のひとつだ。最終手段としては燃やして灰を肥やしにすることだろう。さて、次はいつ作業時間をとれるのだろうか。

労働はエラい、休息は申し訳ないという価値観

週末のイベントに向け、倉庫から使っていない畳を6畳半分出すことになっていた。

畳の上にも、手前にも、横にも‥何やら色々なものが「秩序なく」置かれているのが、目的の倉庫である。私の一番嫌いな状態。取り出したいけど、そこまでの道のりが遠い。なお、目的の畳の上に味噌作りの機械や、潰さずとっておいた段ボールの山を積んだのは他でもない私である。

 

ある程度の無秩序を問題にするのはヒトのサガだが、私はカオスな環境でミッションを得るとパニックを起こしてしまうことがある。最近道具部屋の整理もできて、作業に取り掛かろうという時に目的のものがない!という状況が減ったので、このパニックは久々だった。(その瞬間はそのことにも気づいていない。)

 

畳を取り出すなら、ついでに、倉庫の奥の棚の中身を断捨離して、梅干しや味噌の樽を棚に入れたい。でも時間の関係で、畳を出すだけで、その他は現状に戻すだけ、と夫と話がまとまる。わかるけど、やるならトコトンやりたい性分なので、納得度55%

 

「さあやろう」と言うものの、身体がどーんと重たくて、眉毛が八の字になっちゃう。しかも、朝から左肩の調子が変。

夫にその身体の感じをそのまま伝えた。すると、「ポジティブな気持ちで取りかかれないなら、無理にやらんでいいよ。各自好きなことをしよう」との提案を受け、ほっと一安心する。

ウッドデッキにヨガマットを敷いて寝転ぶ。湿った風、鳥の声、蝶の舞のゆらめき。自然ってなんて癒しの力があるのだろう。

https://www.instagram.com/p/BkjQLclF2bP/

 

私は休みたかったのだ。休みたいときにそう言える人であってほしいと子どもに願う親でありながら、また自分でそれができていなかった。左肩の痛みは偶然か、去年の夏と同じだった。(身体に詳しい方、左肩の解釈の諸説、教えてください)

 

そして、私は休むことにある程度の罪悪感を持っていることに気がついた。

ミッションを目の前にすると、スイッチが入って、それをこなさずにはいられない。身体は重くて肩も痛いけど、成果を出したい。さらには”ついで人間”の癖が出て、ついでに付随する他のミッションを見つけては、全てをこなそうとしてしまう。

「さすがミッションスクール出身」という夫のギャグにウケつつ、信心深くない私は今になってミッションスクールの”ミッション”の意味を理解した気がする。

 

育児と自由業を始めて6年、「仕事と休みの時間を自分で決めることが幸せに生きるミソ」だと気づいてはいた。お金についての考え方が変わったことは以前にも書いたが、週4~5日、5時間労働を基本としている。(上の子迎えが14:30)

なにより育児はハードな肉体労働で、私は精神面がかなりヤられる。休みたいときに休めるようになろう、という趣旨でこれを書いているが、子どもがちょろちょろしているとマジで休めない。このブログで何度も書いているけれど、子どものいのちに責任を強く感じる人ほど、子どもが物理的に一緒にいると心身が休まらないと思う。土日に仕事をすることもあり、保育園のおかげで月曜はやっと休息というペースになりつつあったが、先週はタスクが多く、それさえもできていなかった。(と、ついついリーズナブルな理由を提示して休む正当性を示そうとする癖もある。)

 

休みたいときに休まないと身体と心は乱れる。「自分は(休みたいのに我慢して)がんばっているのに、あなたは楽していいわね、、、」と。家族間や会社内での元凶だ。

(我慢して)の部分に自分自身で気がつかないほどに、「労働はエラい」と思い込んでいる人は多いのではないだろうか。誰がみても”労働”とされる行動をしていれば、エラい。認められる。

しかし、なんのための労働か。それは幸せに生きるためである。

幸せであるためには好きなことをする。そのうちのひとつに休むことを、選択肢として持っていたい。働くこと、遊ぶことも同様に。

 

さらに、休むペースはひとそれぞれであることも理解したい。2時間働いて4時間休む必要がある人もいれば、休みも遊びも仕事もボーダレスなエネルギー体もいる。

様々な局面で「寛容な社会」について議論がなされるが、まずは自分自身の心身を感じて休みたいときに休むことを選択できること、そして各々の休みのペースが違うことへの理解は重要なファクターだと思った。

 

なお、畳は無事に取り出され、イベントも成功。倉庫は片付かないまま。私の体調はとても良い。

https://www.instagram.com/p/BkvApRolxTY/

uecology前に #茶の間 出現 #ウルスコパレス #ウエコロジー

 

 

 

 

「現金稼ぎのための時間」が減ったことについて

先日、夫がパーマカルチャーデザインの勉強に1週間家を空けていたので、前半は実家へ帰り、後半は中高時代の友達2人が我が家に3泊して帰って行った。私たち3人の共通点は「現金稼ぎのために割く時間」が多くないことだった。それぞれの経験を経て、今はそういう暮らし方を選択している。

 
私は東京のビジネスウーマンから離脱して6年、未来的なおカネ観に考えが変わった。豊かさを体感した結果とも言える。これは私個人だけでなく、日本のミレニアム世代以降の時代観でもあると私は信じている。

seikatsusoken.jp

 


そもそも平和な時代の日本に、経済的に不自由のない家庭に生まれた私が、字のごとく食べ物に困らない家に嫁に来た。スーパー仕事量をこなせるお義父さんは家庭菜園レベルでない量の野菜を作る農民である。且つ、アサリや牡蠣、魚類、浜や山から野草など、半島の恵みをとってくる狩猟採取民でもある。さらにそれを方々に配っては、お返しに我が家になさそうな肉類やお菓子などをもらってくるわらしべ長者なのだ。

 


有難いことである。感謝している。

実際、お義父さんがもらって来たパンをかじりながらこれを書いている。

 


と同時に、この家の食材が多すぎる問題にも派生していると私は感じている。人によって感じ方や価値観は違う。戦中生まれで、サツマイモとムギしかできなかった時代を生き抜いて来たお義父さんと同じであるはずがないという前提で話を進める。

その問題とは、たくさんの食材の利用のための労力や電力などのエネルギーが余計にかかることである。家族で楽しむ以上の量があるためだ。何事もtoo muchはよろしくない。いのちが雑に扱われがちになる。お義父さんの仕事量はすごいし、実際おかげで腹を満たしてもらっているのだが、一例として、それで忙しくなって、お義母さんと喧嘩になったりする。だったら要らない、お金で買えばいい、とも思える瞬間がある。豊かでなんでも買える現代において、自給自足とは思想であるが、所詮趣味でしかないといつも思う。

 


今私がやっていることのほとんどが「ここにある豊かさの祝福」であり、その裏側は「豊かすぎるという問題への対峙」である。

 


あるもので工夫して料理し、家族で夕食をともにする。

他人の気持ちを理解して平和的に暮らせるようにNVCを勉強する。

お義父さんが植えていい感じに生長した梅の木から梅の実をとって商売する。

元の屋敷があった荒地を整備し、遊ぶ。人に解放する。竹やタケノコを利用する。

ミニマムなヘアケアについて探求する。

先祖代々暮らして来た土地の手入れをして、ノーローンでセルフビルドで家を建てる。

新しく服を買うのを3回に1回はやめて、倉庫から出て来た布やお古で服を作る。

地元の地引網で余った小魚を魚醤にする

ゴミ問題について意見し行動する。

そして、ここでは余っているのに、どこかでは食べ物に困る人たちがいるという事実に胸を痛め、無駄のない、適材適所な世の中の実現に関心を持っている。

 

https://www.instagram.com/p/BjGgLsdFBCS/


現金稼ぎに時間を使うのではなく、上記のような、あるものを活かすのに時間を使っている。もちろんその中で対価として現金をいただくことはあるし、現金がひとつの感謝や縁の表現であることも理解している。ただ、独身の、サラリーマン時代とは大きく時間とおカネの捉え方が変わった。

 


第一に、親になり、子供に時間を奪われるっ(@口@;)と感じるほどに、時間の配分の重要性を痛感したから。同時に、在宅自営で同じような(というか私の元となる)仕事観の夫と一緒に子どもを見たり、親と食卓を囲んだりしていると、いかに「同じ時間」を過ごすことが家族にとって大事かわかる。例えば夫が、義父が、どんな仕事をしたかなんて、同じ時間を過ごさなければ想像もつかないから。「同じ時間を過ごしていても、人によって視点は違う」ということにも深く気づいた。それだけどう時間を使うかは、誰かと生きるにあたり、重要な選択なのである。日本人の労働時間は長すぎると思う。

 


また、サラリーマン時代、私は営業あがりの事業責任者であったため、明らかに「現金を多く稼げる」ことは大きな評価のひとつであり、そこをクリアできなければ会社にはいられない気がしていた。事業の売上や利益を大きくし続けるという当たり前感をプレッシャーとして受けつつ、ビジネスは社会問題を解決する手段という大義からすれば矛盾するとジレンマを感じており、それを嘆いては、どう説明すれば会社的にも筋がとおるのか、わからなかった。(今や無理に売上アップを目標にしないと言う事業部長が出てきているらしいが)

 


同じように、国の指標としてのGDPの成長が目標に掲げられていることも理解できなかった。もう十分豊かなのに、毎年経済的に成長しなくてはいけないの?人口も減っているというのに?中国に抜かれてなにがいけないの?

 


社会制度としてのベーシッックインカムに興味をもっており、ルドガー・ブレイグマン「隷属なき道」を読んだら、痛快だった。GDPでは、2時間働いて3000円を稼ぎ2900円の服を買い足せば両方が評価されるが、穴の空いた服を2時間かけて自分で直す行為についてはゼロ評価である。また、イノベーションにより労働力が削られると、その分GDPはマイナスになる。(そのようなイノベーションを評価できない)なのに、金融商品のような金で生んだ金は大いに評価される。それが、経済界の目標や貢献の指標にされているのは明らかに問題であり、時代遅れであることがわかった。

 


またルドガー・ブレイグマンはこうも言う。現代には無駄な仕事が多すぎる、高給な仕事のほとんどが不要だ、と。私も思ってた。みんな自分の仕事は本当に必要で誇れるのかと問いたい。

 

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

 

 


親になり、自営業になり、豊かな土地の恵みを知り、生活に責任を持つようになり、上記のような時間の使い方にシフトしていった。もちろん現金をある程度稼ぐし、使う。お掃除ロボットや各種工具などのハイテクノロジーにより時間を創出するし、アマゾンにはいつもペイしてるし、子どもの保育も外注しているが、GDPに評価されないような仕事も積極的にする。これが過不足なく・心落ち着かせて暮らすために必要な私の時間の使い方になった。