nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

光風林と三和土(たたき)を作った(元屋敷プロジェクト)WS企画変更について。


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(↑作業前)

12/2~4で光風林筒井さんと共に元屋敷での作業。
元屋敷奥の竹林を、ユンボの協力もあり、整地することができた。
まだワイルドな状態ではあるが、敷地の1/6くらいが、すっかり人間の開拓地となり、開かれた土地を見ると「思っていたより狭い」と感じた。


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ユンボで竹の抜根をしつつ、出てきた土質を調べ、粘土っぽい土を採取。
谷底の粒感大きめの砂と小石のまざった砂利を同時に採取。谷底から肥料袋に入れて繰り返し担ぎあげる。f:id:mindlogchihiro:20191209233001j:image

三和土(たたき)は粘土1+砂砂利2+消石灰+にがり(塩化マグネシウム)で混ぜる。
水分はおもったより少ないが、全体に水分の重みは感じられる程度。
団子をつくってしっかり固まりはするが、圧しなければ各物質がくっつき合わないくらい。
それを釜の基礎として、石を敷いた上に積み、上から踏み、叩き固めていく。f:id:mindlogchihiro:20191209233132j:imagef:id:mindlogchihiro:20191209233939j:image

今回は消石灰生石灰に水を足し、化学反応させたものと、水分調整のため消石灰の粉も利用した。
塩化マグネシウムは凍結防止剤の塩化カルシウムで代用。

15cmくらいの高さ、奥行きは1m強の窯の基礎ができた。


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今回の作業の結果できたこの基礎には「この場所」を大きく変えるような不思議な神聖さがあり、うっとりする。もう少しこのまま眺めているのもいいなと思った。
三和土は年月によって、変化し続けるらしい。その観察をある程度していくのもまずは必要と感じた。
土のことを知らずして、とりあえず筒井さんの予定をおさえワークショップの日程だけ決めていたので、元屋敷プロジェクトの進め方ついて改めることにした。別に何も急ぐことはないのだ。

「この場所」を興味ある方と共有できるいいところにしたい。自分が癒されるから、シェアしたい。
その気持ちは今も変わらないけれど、具体的に誰に向けて、何を作るか、そのイメージをもっと深掘りしてから、その時がきたら、作ればいい。元屋敷が好きすぎて、何かしたくて、気持ちが早っていた。

消防署に必要な届出を出し、近隣住民の方々へ説明していくと、どうやら村の人には心配されているらしい。
歓迎されていないことを強行突破しても、持続可能性はないだろう。

土がどう変化するのか、ということ、村の人がどう思うのか、ということ、リアルに感じられていなかった。そして少しだけ学んだ。土と、地域との、対話のはじまり。

鎮座する三和土の基礎、さらなる開拓のあとで感じる太陽の感じ、今回の作業前後での違いや、変わらぬ鳥の声や竹がそよぐ気持ち良さを、体感しながら、目の前のことをできるタイミングでやっていくのがいい。よって、釜を作る、貝灰を焼くのは延期。

1/25は集まれる人で集まって軽作業したり、ゆっくりしたり、各自好きなことやる時間にする。元屋敷オープンデーです。軽作業のイメージは枯れた竹を片付けたり、粘土や砂利の採取。
ホストとしては、昼ご飯をみんなで作る、きてくれた方にお茶を出すことだけをとりあえずは目指して実施する。また、子どもを招き入れるというのもテーマ。

今回筒井さんや協力者を集め連日作業したのだが、子どもを持つ親としての生活も同時進行であるゆえ、土日となるとなおさら、多くの方を2日にわたりホストするのはキツイかもとも思い、企画について再考させられた。私たちらしく、進めていく、そのやり方とペースを今一度再確認し、釜作り、貝殻焼きの次なるステップに進む。

引き続き、応援のほど、よろしくお願いします。

 

Movement Medicine -For All Our Relations- "Resource" 

1月にバリでEcstatic Danceに出会ってから、自由ダンスを探求中。名古屋の5rythemスウェットクラスや、Movement Medicine東京のクラスに何度か参加し、5月にはひたすら2時間近く踊るダンスフロアも実験的に企画した。Movement Medicineを始めたYacovが浜松で2泊3日の合宿をやると知り、参加は心に決めてた!イベント盛りだくさんな9月、3歳と7歳の子どもたちや家族の健康を確認し、よし!と当日に申し込み、ひとり浜松の山まで車を走らせた!冒険のはじまり。

https://www.instagram.com/p/B2krtWnjfcL/

(会場は方広寺という超〜でかい禅寺)

 

いのちといのちが関わりあう時、例えば親子の日々の関わりも、かわいいペットや植物のお世話も、職場の仲間との会話も、一瞬でも同じ時はないライブだなといつも思う。即興のセッションしかないライブ。それはまるでダンスをしているようだ。相手が右に動いたら、見合って左に動くのも、一緒に右に動くのも、はたまたその場から動かずジャンプするのも、その時々のそれぞれの関係性。その時にできる相手との関わりは、頭で考える暇もなく、反射的に、ダンスのように進んでいく。

 

自分が右に動いたら、右に動くべきだ、とか、動き方を合わせて、とか、そういう風に相手を都合よく動かすことはできない。お互いにただそれぞれのダンスをすればいい。

”あなたがあなたのダンスを踊らなかったら、誰がそのダンスを踊るの?” 

私は、Movement Medeicineのセッションで私が私のダンスを踊る勇気を得た。それは自分のリソース(資源)の再確認でもある。自分が今まで経験してきたこと、大好きなこと、苦しかったこと、自分の家族やご先祖さまも、すべてのいのちとのつながりがあって、今私が私で在れる。

 

だけど、誰だって、怖い、恥ずかしい、恐れがある。その突破口として「Micro-Medio-Macro」(ミクローメディオーマクロ)のワークというのがあった。まずは目を閉じて自分の皮膚の中だけでじっくり自分自身を感じて踊る(ミクロ)。次に目をゆっくり開けていき、外の世界を感じながら踊る(メディオ)。そして、自分以外のいのちとつながって踊る(マクロ)。

 

情報が多い時代だからこそ、身体で感じる、直感に従う。「インナーシャーマン」は時に自分の身体を超えた何かとつながり、直感や洞察をどこからか呼んでくる。人間社会の言語的な世界観でも、資本主義経済的な頭でもなく、踊るように在るがままのいのちとつながる。自分自身と、他者と、虫と、木々と、地球と、宇宙と。今回のmovement medicineのツアーのタイトルが”For All our Relations”なのもうなづける。

 

Movement Medicineのセッションのひとつに、「木と踊る」時間があった。ミクロな自分から、ゆっくりとマクロな自分になって、目の前の一本の木と踊る。私はいつも海に行って踊ったり歌ったりしているのだけど、それはマクロな私だったんだ、海とのつながりだったんだと感じた。

 

「つながりに愛を」とノートに書いてある。3人組で一人が踊って、一人がそれを見守る、一人はそれを感じつつ自分について思い浮かぶことをノートに書く、というセッションがあった、その時のメモ。

 

とにかく踊って、泣いて、空っぽになり、最後には自分で自分のダンスを踊る勇気と、「風の要素」を持って帰った。(大地、水、火、風の4つの要素を踊る時間もあった)

 

帰った晩にご近所のおばあちゃんが亡くなったことを聞き、次の日から村の仕事で葬儀のお手伝い。人生で初めて蕁麻疹も出ちゃって、9月頭にアシナガバチに刺されたことさえもつながって感じられる。翌週には子どもの初めての小学校の運動会。7年乗った車が壊れる。翌々週には岐阜へ。MovemenMedeicineの合宿の前日には千葉いすみから光風林の筒井さん夫妻をお呼びして元屋敷の未来について作戦会議した(別途書く)ことを皮切りに、9月はいろいろ刺激的で初めての体験が続いた。力むのが私の悪い癖だけど、風の軽やかさに導かれ、落ち着いて在れた。

 

10月に入り、美しい秋の気配。やっと落ち着いて、何が起こっているのかを整理する気になった。またダンス必要だと感じている。書くこともそうなんだけど、ダンスも、歌うことも、話すことも、私のリソースで、好きだなって改めて感じた。近場で定期的に踊れるコミュニティ作りもしたい。きっとする。一緒に踊りましょう。

 

movement-medicine-japan.com

 

前からフォローしていたちんどん屋のおねえさん、佐藤 有美さんも別の合宿に参加したらしく、興味深いBlogでした。大地、水、火、風の4つの要素をこうやって捉えているとは。

cotoconton.com

 

 

 

夏休みの宿題の意図

作文もまともに書いたことのない一年生に読書感想文、原稿用紙一枚半。個別懇談会で夏休みの宿題の説明はあったけれど、「出題意図」の共有まで踏み込まれてはいなかったし、私はあくまで「子どもの」宿題だと思ったまま夏休みを迎えた。そして出校日を翌日に控え、近所の先輩保護者たちとも宿題談義をするうちに「学校に通っているのは子だけど、これは”親の宿題”なんだ」という自覚をやっと持ったところである。

 

学習指導要領にもそう書いてあるのであろうか?「学校は”保護者に”宿題をやらせることにより、学習行動を習慣化する云々」など。だからといってのび太のママのように「宿題やったの?!(ヒステリー)」でしか関わらない親にはなりたくない。

 

提出期限まで1週間を切り、学童を休ませ、読書感想文の日を作った。合計2日。本人の体調が最高でなかったこともある。

 

くだんの読書感想文である。まずは本を読まなければ始まらない。ムスメさんは同じ学年の女の子に人気の「ルルとララ」シリーズを借りてきて、課題図書に設定したが、文字数がまあまああるし、とにかく「それがいいの」と言う割には本を開こうとさえしない。しょうがないので(1)一行づつ交互に読む(2)1ページづつ交互に読む、を提案し、読書の時間を作るも、最初の4ページくらいは楽しく読めるが、すぐに飽きてしまうの繰り返し。やっと29ページまで行ったが進まない。

 

私自身は先が気になって最後まで1人で読んだが、スイートポテトのレシピなども満載で、最後のメッセージも良かった。それを伝えてもムスメさんは一向に読む気なし。

 

こっちは本気でやっているのに、子どもがダラダラと集中しない、というすれ違いがあるとき、私はいつも怒れる。私は魂を込めて今この話をしているというのに!(共感したい)他にしたいことが山もりある中、この時間を作っているというのに!(共感されず、もはや関心を失いかけている)ムスメさんの言い分は「やりたくない」「興味ない」「気分じゃない」である。休憩をはさんだり、興味を持ってもらえるように促す工夫もするけど、すぐネタ切れ。そうなれば「じゃあやめよう」である。興味ないことをやってもしょうがない。そもそもこの宿題の必要性を理解していないし、学校に言われたことをすべて遵守してオールAも狙っていない。脅し文句でもなんでもなく「じゃあ宿題なんてださなくていい」と私は本当に考えている。

 

でもそう言うとムスメさんは泣いてしまう。ああもうやだ‥。宿題にこんな気持ちにさせられるなんて。宿題なしという学校がこの日本にもぞくぞくと出始めているというのに。公立小学校でもついに!取手市永山小学校PTAブログ

 

 

ムスメさんに話を聞けば「やりたくない」という割には「宿題を出さなければ!」という気持ちがあるようだ。話を聞くと「周りの子は出しているのに自分は出さないわけにはいかない」という気持ちと、「先生に良く評価されたい」という気持ちが根強いことに気づく。ムスメさんは「クラスという集団に受け入れられる」ために宿題という成果物を提出したいのだと気づいた。それが宿題である必要性はないのだが、受け入れられたい気持ちはわかる。素直な子だ。私は自分自身が評価に敏感になりすぎて疲弊してきた経緯があるので、つい警戒してしまう。

 

母娘で煮詰まったところで、ムスメさんは夫と話すうちに、いつも読んでいる『ファンファンおもちゃランド』を課題図書にするように気が変わったらしい。私も前々から「(ルルとララでなくて)他の本でもいいんだよ」と言い続けてきたが、夫はムスメさんが「お友達が選んでいるから」ルルとララにしたという点を見抜いていたらしい。夫いわく「ムスメさんの好きなイメージ(ビジュアル)と全然合ってなかった」とのことで、私には全くない視点で助かった。たしかにルルとララはとことんラブリー、おもちゃランドは摩訶不思議ワールドで作風はすごい違いである。

 

ルルとララのスイートポテト (おはなしトントン)

ルルとララのスイートポテト (おはなしトントン)

 
ファンファンおもちゃランド

ファンファンおもちゃランド

 

 

課題図書を変え、夫が促し、30分集中といって、原稿用紙に向かうと、すらすらと感想を書き出すではありませんか?!「しゅじんこうはもんちゃんです。もんちゃんはとってもゆうかんです。なぜなら‥」原稿用紙半分弱まで自分の感想を書けたのには私も感心した。でもまたそこから集中力がなくなり続かず、私「しっかり自分の感想が自分で書けたのだから、原稿用紙半分で出せば?」娘「それじゃダメなの(泣)先生が600字以上って言ったもん」の応酬を繰り返す。

 

ラチがあかないので、ページをめくりながらここはどこが面白かった?何が好き?などと私が聞き出してメモ、それをムスメさんが原稿用紙に書き写すようにした。ムスメさんが「ママの字が汚くて読めない」と文句をつけるので、次はパソコンに打ち込み印刷したものを渡した。パソコンに打てば、書くより早くて漢字も変換してくれるからねーだっ。

 

そして‥ついに完成。母娘で達成感をやっと共感できたのは良かった。原稿用紙1枚半というのが私たち親娘にとって、高いハードルだけれど、けっして乗り越えられない高さでもなかったようだ‥やっている最中は宿題いらねー95%だったが、終えた時にはやってよかったという気持ちにはなった。

 

一年生の夏休みの宿題の目的は「親子で一緒に本に親しみ、気持ちを話し合ったり、考えを言い合う体験」もっと言うと「親子での共同制作」なのかなと感じた。まさか「学校として〇〇新聞大賞に応募するための作品集め」だったらそれは止めたほうがいい。(もしそれが学校や教員の評価に繋がるなら、そこも考え直したほうがいい)

 

親子で関わりを持つこと、学習などの体験を共にすることに意味はあると思う。夏休みくらい、そういう時間をとってほしいんです、と言われれば私は納得する。体験が大事で、過程こそに意味がある。そうであれば、アウトプットの形はなんでもいいのではないか?原稿用紙何枚でもいいし、絵があってもいいし、子ども1人ではなく、親子でということが大事なのであれば親が書く部分と子が書く部分があればよいと思う。もちろんその成果物を学校は単一のモノサシで評価することはできないことを前提にしている。

 

ただ、貧困や障害を抱えた場合など、家庭の状況によっては、子どもに親が付き合っている時間がとれないかもしれない。そこは考えないといけないだろう(学習相談ってそのため?それもわかってない)。一方、”宿題絶対信者”の親がのび太のママのようにヒステリーに「宿題やったの」としか言わなければ、子どもは苦痛に違いなく、宿題が完成していなければ二学期に学校にも行きたくなくなるだろう。

 

そもそも同じ1年生でも読み書き能力には個人差がある。支援級の子は感想文は免除であるなら、読み書きの苦手な普通級の我が子が原稿用紙半分でも自分で自分の感想を書けたのだから、それでいいではないかと私は思う。苦痛あってこその成長だという考え方は私の中にもある。”一律(平均化された)の与えられた課題”に違和感をもつ親ならば、我が子にちょうど合った分量を、学校側の”めやす”を参考にしながら決めることができる、などの柔軟性が学校にも子どもにもあったらいいのに、と私は思う。1年生の時はそうでも、2年生になればほとんど自分ひとりでできちゃう子もいるだろうし、6年生になっても大人のサポートなしでは課題の整理と進行ができない子もいるだろう。宿題に共に取り組むことが、親も子を知るよい機会であるとは思った。

 

元教員の義母ともこの話をしたが、学校側も多くの苦悩があってこの宿題を出しているに違いない。職員室では「これは親がやったぽいなぁ」などの会話が飛び交うんでしょうか?実際、他の親たちの話を聞けば、みんな「親がやってる(当然)」と言っていた。そして彼らは自分の作品をスマホにおさめた写真で見せてくれるのだ。もはや製作者の愛着さえ感じられる親によるポスター笑 そうともなれば、親の名前で宿題を出せるようにしたっていいとさえ思えてくる。この地域は子どもが少なく、運動会の後半は地域の大人の運動会になるのだが、まるでそのように。先生たちはどう思っているのか?そういう放って置かれたままの疑問について、親と学校でざっくばらんに話をするワールドカフェがあればいいのに、と思う。

 

もちろん宿題は枝葉の話であり、根本はこれからの時代に生きる子どもにどんな力をつけてほしいのか、と言う話なのだろう。