nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

“Genaration Z”に抱く希望

伊藤穰一の未来観
“Genaration Z”に抱く希望

 

media.dglab.com

 

『緑の星』のテレパシーか、「攻殻機動隊』の義体化か。
テクニックか、テクノロジーか。どちらもゴーストか。
(いや、どちらもフィクションなんだけど)
未来に人間がもっと幸せであるには、どんな選択があるのだろうかといつも妄想する。

インターネットやAIなどのテクノロジーと当たり前に共存している“Genaration Z”は、好きなことをそれぞれに追求することで(それを目的にして行動することで)地球にいのちとして気持ちよく存続できるのだろうか。

“Genaration Z”を伊藤はヒッピーに似ていると言う。
ヒッピーカルチャーには美学がある。
自然を感じ、尊敬し、美しさを讃える(芸術)。
原始的な生き方に憧れ、無駄な人為(生産、消費、破壊)を減らしたい。
野生を取り戻す、身体の勘を大事にする、種を超えて共生する道。

台風24号で二晩を停電で過ごし、学ばされたことは多かったが、その一つが「月の力」。
ろうそくの火で夜を過ごし、街灯や信号機の消えたこの世界では、月がいつもと違う存在に思えた。月のある夜とない夜では、どれほどに世界が違って見えるか。私たちは電気で麻痺している。LEDで過ごす夜は明るすぎて、月や星、闇、宇宙に鈍感になる。

私はこちらに住んで日常的に海に行くようになり、月が地球や私たちに持っている「力」を不思議に思うようになった。月へのスピリチュアリティの始まり。月との関係性について、科学的に捉えようとするのもそのうちの一つ。インターネットで月見表を検索することさえも。

これから科学は農業・工業的進歩ではなく、精神的な進歩を目指す手段になるということだろうか。
”アートとサイエンスの橋渡し”という考察も興味深い。
過去の農業・工業的進歩によって私たちは衛生的で食べ物に困らない暮らしを手に入れた。
物質的なゆがみを一つづつなめらかな関係性に変えるイノベーションと、それを現実に選択できるスピリチュアリティが、未来にはある、それが楽観的の意味だろうか。

#natureandtech.

2018盆 他人由来の仕事をこなす脳、自由をする脳

今週は昨日まで保育園に通う坊やもお休みで、当然こども園1号(幼稚園)のムスメさんもお休みである。子どもとずっと一緒に過ごすことに負担を感じることは目に見えていたが、いざそうなるとやはり心身が重い。

2歳の坊やは口を開けば「やだ」「〇〇じゃない!」の剛腕。自分の願いが叶わないと夜の10時に外で走り出すような二歳児である。大人4人と6歳のムスメさんでめいいっぱいに付き合ってきているが、彼の大好きなおばあちゃんがヘルニアで動けないのだから、坊やのお相手というミッションが一番重く感じられる。そこにムスメさんの要求(ときどき不機嫌)が度重なる。私はここのとこ毎日ため息をついている。

 

子どもの健康を守る、彼らの願いを叶えるというのは、親にとってありふれた日々のミッションだ。お義母さんがヘルニアになって動けないので、さらに親の生活やお盆にてご先祖の霊まで加わり、嫁のミッションも多い2018夏。

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私は他人由来の仕事を私がやらねば!とミッション化して受け取るタチであり、それをモチベーションにするところがある。

結局は「他人に合わせる活動時間」のことである。誰かに合わせるのは、人の役に立ちたい、彼らを喜ばせてあげたい、楽にしてやりたい、そう私が願うからに他ならない。でも、自由度が低く、ストレスが多いのもまた事実。

 

そしてミッションを精一杯こなそうとする。そして疲れ果てる。疲れてくると、イラっとすることが多くなる。バイタリティがさがる。

活動を楽しめなくなる。「他人由来の仕事を”しょうがないから”やっている」という見方になってくる。もしくは単純に疲れている。

 

最近はそれに気づき、声をあげるようになった。ひとつの成長だと思う。家庭平和の前に自分平和。喜ばれたくて、人に合わせすぎる自分にアラートを出す。「子どもの相手に疲れた、一人の時間がほしい」

それを聞いた夫は最初は少しイラっとして自分が責められていると感じたようだ。夫婦によくある「自分だって精一杯やってるのに」という気持ち。でも責めていない、今の気持ちだと説明すると、夫はすぐに気持ちを切り替えて笑顔が戻った。夫は今年パーマカルチャーデザインコースに通い共感や平和のあり方についても改めて学んで来たのも大きいと私は感じている。坊やを連れて長仙寺へ村人が倒した桜の木を見に行くと出かけて行った。暑いのに感謝。ムスメさんはipadクレヨンしんちゃんの映画。

 

そして今これを書いている。書くのが好きだ。楽しいし、整理されて、すっきりする。気持ちが落ち着く。タイプしながら自分を取り戻す。呼吸ができる。

結局一人じゃないと深呼吸さえできないのが今の私なんだと気づく。自由をする時間が減っていくと息が詰まる。数日前、一人で店の前を思いつくがままに片付けたときも快感だった。

他人由来の仕事をこなす脳と、自由をする脳は働きが違う、たぶん。どちらも好きでやってるし、どちらも必要なのだが、自由をする快感を知ってしまったら、選択の余地が生まれる。それが現代の母、嫁の葛藤であり、生き方なのだと思う。

 

子育てこそ、他人由来の仕事がほとんどの世界である。

「アイス食べたい」など子ども由来のニーズ

「子どもの言いなりにならない」「冷たいものは控えて」など”先人の言う正しさ”

「今からご飯なのに」「下の子がジュースこぼす」などの条件

「料理に集中したい」「ちょっと休ませて」など自分の願い

私にとっては混乱に近い。

 

ここ最近、5時起きの坊やを義父さんが散歩に連れ出してくれたり、お義母さんが動けなかったり、夫がパーマカルチャーデザインコースの勉強で家を空けていた経験から、しみじみ自分一人では子育てはムリだと思う。孤育てしていたら、虐待してしまっているかも、とも。

 

”嫁の仕事”というのは、現代ではもはや死語かもしれない。昔の嫁たちが、いかに大家族の中で役割をこなしていたか、いつも感心している。この盆ではご先祖の霊にお霊具前と呼ばれるご飯に味噌汁、漬物にさらに煮物など二品の精進料理をお供えすることになっているのだが、まあまあの手間である。ここ最近午前中はお腹が空くまで食べなかったのに、母屋で朝から料理をしていると味見やなにゃらで結局色々食べているし、とにかく自分本位より他人由来の時間の過ごし方になってくる。何度も言うが、水汲み、手洗い洗濯、風呂沸かし、なのに自分が風呂に入るのは一番最後なんて、昔の嫁には頭がさがる。それを毎日楽しんでいた嫁もいただろうし、歯を食いしばっていた嫁もいただろう。信じられないのは男尊女卑の時代ということである。彼女たちは他人由来の仕事かどうかなんて考えることもなく、女は嫁はそうあるものとして、毎日働いたのかもしれない。

 

 

私はお盆に何を考えているのだろうか。『リメンバーミー』をタイミングよく観てしまったこともあって、ご先祖には申し訳ないが、などとの前置きがつくのだが、私は2018年を生きる嫁である。先代の嫁たちの気持ちは単なる想像に過ぎない。ただいつも思うのは今を生きているのは私とこの家族であり、ご先祖からの命のつながりであるが、ご先祖はもう今は生きていないということである。生きている者が優先。生きている者の中でも他人由来の仕事をしているのだから、生きていない人由来のことはさらに後回しである。つまり盆の行事や日々のお供えやお墓の掃除も、自分の中でそうしたいと思えるかどうか。代々の嫁がやってきた仕事について、学んで体験してみても、それをやめるのか、続けるならどのように続けるのか、それを今判断するのは私である。スピリチュアリティはある。でも数々の仕事の中でリアリティとプライオリティ次第で何をしてあげられるかは変わるのだ。

 
映画『リメンバー・ミー』日本版予告編

 

そういう考えの私が、このトラディッショナルなコミュニティに入った。嫁の仕事に限らず、他人由来の仕事であっても、新しいことに興味があるから、進んでやる。体感した結果、合理的な、より心地の良い選択を求める。

これにて2018年盆のタスクは終了。坊やも今日から保育園。急に涼しくなり、美しい秋の雰囲気に爽快な気持ち。

 

苦しい時に声をあげるという態度、苦しみを紐解く繋がり

虐待する側も 虐待される側も 助けてと声をあげ、誰かに頼ることができれば、虐待の関係性から逃れることができるのではないか。

「繋がりが必要」の意味だ。SOSを出せる「第三者」の存在が必要である。「第三者」のあり方について議論がなさており、その一つが「警察と児童相談所が相談の全件を共有すべきかどうか」という論点である。

imidas.jp

自身も虐待サバイバーであり、ティーネージャーを中心とした被虐待児の支援活動をしている仁藤さんの意見は私は真っ当だと思った。数々の現実を体感してきた彼女の筆力には圧倒される。虐待され追い詰められたキワどい心理状態の人たち。暮らすために売春したり、家族が犯罪に関わっている場合には、後ろめたさや怖さを感じ、児相が警察と情報提供しますからと言えば、困った時に駆け込む場所がなくなるのは理解できる。

 

大人も子どもも荒れるのには原因がある。家族の関係性、貧困、病気や障害など。

高崎順子さんのいじめ加害者に関する考察もその通りだと思った。私はサラリーマン時代に子どものネットいじめに関わる仕事をしており、その際知り合った心ある教育関係者の方は皆「荒れるのには理由がある」と口を揃えた。ある中学校の先生はバットを振り回す少年に「何がそんなに気に入らんのか?聞かせてくれ。」と殴られる覚悟で寄り添いながら、バットを握る指を一本一本剥がしていったとまるで学園ドラマのような現実を語ってくれた。問題行動とは彼らからのSOSである。いじめ、虐待、ましてや殺人といった暴力行為そのものを擁護する気はないが、その行動の原因を親身になって紐解いていく繋がりが誰にも必要なのではないだろうか。

socialaction.mainichi.jp

 

仁藤さんは先日、同じく虐待をなくす・虐待から子どもを守れる社会のあり方について共著までしているフローレンス代表の駒崎さんから”マンスプレイニング”を受けたとして、深く傷つき、辛い気持ちでいることについて、延々と気持ちを書いていた。今回の駒崎さんとの一件で過去の虐待被害からのトラウマが再発しそうになっており、なんとか自分の中で気持ちを整理しようと、周囲に理解してもらおうと、辛い、苦しい、助けて!と叫んでいるのであった。

 

駒崎さんとの一件があった同じ週に、仁藤さんは電車内で6歳の少女が性的な被害を受けそうな瞬間を目の当たりにして、少女を助け、周囲に助けを求めたが相手にされないというショッキングな出来事があったらしい。仁藤さんには同情する。同じ頃の娘を持つ身として危機感を持ったし、助けが必要な人を無視するあの電車の雰囲気が辛いという気持ちを私も思い出した。

www.facebook.com

 

こうやってこれを書いているのも、仁藤さんを応援したいからである。(念のために言っておくが、駒崎さんのことも尊敬し、応援している。)会ったこともないし、ネット上には様々な意見や憶測があるけれど、彼女の子どもを守りたい情熱は文章を読めばわかる。そして、発信することで、当事者として自分を救いたいと願っていること(言語化と共感による癒し)、そして、それを閉じた日記でもなく、匿名でもなく公開することは、虐待やハラスメントの実態をより多くの人とシェアすることに加え、そうやって「苦しい時に声をあげる」という態度そのものについて体を張って啓発しているのだと私は受け取った。

一連の投稿で心動かされて僅かだけれどcolabo寄付した。なお、匿名でこれを書いても「匿名であるということは実在するかわからないのでアリマス!」と言われたり、「仁藤の自作自演」などという人たちが出てくるので、私は実名で書いている。