nature and tech.

地球平和の前に家庭平和

「ある」ことに気づき生きる in Bali

kinoがトランスして困った翌朝、プールで遊んでいると、kinoが(借りているビラの)外に行きたいと再び激しく泣き出した。こちらは水着だし、uiちゃんはまだプールから出たくないと言う。着替えてからにしよう、などと声をかけるも聞かず、泣き叫び続ける。すると隣のビラの住人が二階の窓から英語で怒鳴ってきた。おまえのところの子供は昨日の夜からずっと泣き続けていると。I am so sorryと謝るも、「You do nothing for that」と言われたのにはカチンと来た。「I Do my best, you dont know my boy, he is like that」と言い返すもモヤモヤしたまま。

 

彼女にkinoがどんな坊やか知り得ないように、私も彼女になにがあってこうも声を荒げるのかわからない。そんな当たり前をわかっていても、私は責任を感じて落ち込む。彼女は休息や静寂を必要としていたのだろう、などと共感を送ろうとするも、悔し泣きした。2歳10カ月のイヤイヤ剛腕のkinoを連れての海外旅行なんて、最初から計画ミスだったんだという気になってくる。旅が終わってみても、正直2週間は長すぎた。楽しかったけど、苦しかった。仕事を休み、お金を出して、私は修行に出たのだった。とほほ。

 

一人で海外に出かけていた時とはもちろんのこと、前回uiちゃんが1歳10ヶ月のときに3人で行った旅とも、今回は相当に違っていた。私にとっての旅とは好奇心のままに新しい景色や人と出会い、刺激をもらい、スリルと発見に満ちた冒険。私は新しい世界を知るのが好きで、冒険のニーズが強いと思う。しかし子どもがいると子どもたちの安心と安全が最優先になる。子どものご機嫌にもよって先に進めないことは多々あり、バリの気候もあり、歩いて移動もほぼできない。異国の地にいるのに、歩いて塀の外にもなかなか行けないことに私は歯がゆさを感じて苛立っていた。子ども二人は私にべったりで、ちょっと周囲の様子を探検に出られるだけでも夫が羨ましかった。

 

ほんと私ってバカだなと思う。普段子どもとべったり一緒に過ごすのが苦痛で、義親や保育園にお世話になってなんとか生き延びているのに、自分で2週間も子どもと夫と4人だけでの生活を設定してしまったのだから。毎日繰り返される姉弟喧嘩の騒音を感じながら、かなり早い段階から「この旅は修行だ」と思い出していた。

 

夫との協力でなんとかGreenSchoolBambooFactoryの見学は終えたものの、ウブドの街を見たり、ヨガのクラスに参加するなど、なかなかできなかった。しかも雨季。運悪くそれはそれはよく雨が降ったのだった。事前に見ていた「雨季でもそれほど問題ないですよ」の書き込みは全部日系ツアー会社のマーケティングだったんじゃないかと今では疑っている。さらには海も荒れて周辺の島へのボートは欠航、波が高くてスノーケルもできず。

 

しかし、「ない」ことに目を向けてもしょうがあるまい。「ある」ことに目を向けなくては。

実際、素晴らしい竹の建築や、GreenSchoolをこの目で見て体験することができたのだ。中学ダンス部の時からの不思議な縁である「ケチャ」も見ることができた。寒い日本の冬から逃れることができた。なにより子ども二人は健康そのものである。こうして異国の地で家族4人協力しながら今日も生きている。

 

そもそもヨガに行きたのに行けないと苛立っていては、それは全くヨガ的な態度ではない。

日常を冒険し、今ここにヨガしようではないか。深呼吸。

私の場合、夫と二人の子どもとの生活だ。目の前で泣きわめく子と、怪我や病気を患う夫と、それに動揺したり苛立つ自分と、今を生き延びることなのだ。

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異国のスピリチュアルな刺激で私が思い巡らすのは、家族との関係や、いつも住む土地のことである。魂が帰る場所を再確認させられた。スピリチュアルというと浮世離れした志向のように思っていたが、実は地に足をつけ自分の世界に、関わる生命に、じっくりと気を向ける道なんだと思った。

 

いかに愛に気づき生きるか いかに「ある」ことに気づき生きるか。

聖人でなくても、今日を家族や傍にいた人に、足元の小さな生き物に、地球に、自分自身に、愛をもって接し生きたか。

 

人間は完璧ではないし、感情的である。だから思い通りにならず落ち込む。苛立つ。苦しむ。その過程で愛を思い出せなくなる。愛が感じられないこともある。それがさらなる苦しみの原因になる。それらを受け入れ、心落ち着かせ、あるものにじっくり気を向ける。その時々を生き延びる。それしかない。