ファイブリズムズSweat@名古屋 自分の中心に。
エクスタティックダンスについて探究心が猛烈に湧いていて、日本のしかも田舎にいてはチャンスがなかなかない中、5rythemsのSweatクラスというのが名古屋で行われていることを発見。先日、片道2時間かけて参加することができた。
名古屋の雑居ビルの二階の広くはないヨガスタジオは11人の参加者が自由に動くとめいいっぱいだった。前々日にuiちゃんの幼稚園で親子のリズム(さくらさくらんぼ)があり、それも相当楽しかったのだが、若干筋肉痛だった(苦笑)。最初はゆったりとしたリズムでストレッチしながらいたけれど、いつのまにか全力で踊っていた。
Ubudでエクスタティックダンスのクラスに参加した時、こういう個々の自由をそのままに、というグループは日本ではなかなか成立しにくいのではないか、とぼんやり思っていた。でも、名古屋のクラスではもうみんな自由すぎて痛快だった!みなさん相当な集中力で、その場に居られるのが嬉しかった。
ここ最近、uiちゃんが以前に増して私を求めるようになっていることに困っていた。四月に小学校入学を控え、環境変化にセンシティブになっているのかもしれない。土日など彼女が家にいる時に私に出かけないでほしいと泣くのである。いっときも離れたくない、寂しいと。そんな2~3時間じゃん!かならず帰ってくるよ!と言っても聞かず、泣きじゃくる。「ママだってそんな制限されたら辛いよ!」「これはママの夢なの、これに行けなかったら、uiちゃんのこと嫌いになりそう」とこちらも泣き出す始末。あーあ、人格そのものを嫌いになるとか、一番やっちゃいけない脅しだよなあ、罪悪感はつのる。
名古屋に行くのもなるべく近くまで一緒に来て、街で遊ばせながら私を待つということになり、家族全員で出かけたのだった。泣いて嫌がった末になんだかんだ言って私を送り出してくれた娘と、店の予約を朝一と夕方に調整して名古屋までついてきてくれた夫、よくわからず一緒にきた坊や、罪悪感を持ちつつ探究と自由を求める私。
そんな背景だったので、余計にその場に居られることが奇跡のように感じられた。たっぷり踊ったあと、バラードが流れ出して、涙が止まらなくなる。
私は自由が必要だ、自由が必要なのだ。たとえそれが我が子でも私の身体と精神の自由を拘束されたくはない。その場にいられることに猛烈に感動していた。
少し落ち着いて目を開けると、今度は自由なダンサーたちの姿に感動してしまい、思わず合掌。またもや涙が出てきた。結局後半はあまり踊らず、泣いた。空っぽになった。
ファシリテーターの梅田さんから「開いている状態なので、2~3日は感じやすかったり、涙が出てきたりすることがあります、周りの人はそうではない人がほとんどだと思うので、現実でこまったらちょっと閉じる、というのを意識して」とのアナウンスがあったのだが、その通りで、2日泣いてばかりいて、鬱みたいになった。3月は去年も鬱になったなあ。
そのまま遠慮なく開けっぴろげて、自分が何者かは変えられないのだから、感じていることそのままを夫に聞いたもらった。喧嘩になったが、今回は早めに出口が見えたと思う。もう出し切っちゃったら、夫になにを言われても冷静になっていて、夫が言いたいこともある程度聞けたと思った。子どもと一緒に過ごす時間はもちろん大事だし、子どもの気持ちも尊重するけれど、同じく私自身のニーズと感情も尊重したい。自由と探求は私の大事なニーズなんだ。そうはっきりわかった。あと、家族以外の人との繋がりももっと必要。最近そう感じている。
自由なダンスで「自分の中心」がわかった。自分はここにしか居ない。自分を一番知っているのは自分である。自分の感覚をたよりに生きる。
夫も子どもも自分ではない。しかし自分を必要とする。私の時間と身体の自由を確保しながら、彼らに愛を持って接したい。私は自己犠牲はしたくない。私のしたい献身ならするが、ご飯くらい自分でよそってほしい時もある。
「自分勝手」とは、「おもいやり」が感じられない時に使われるのだろうか。誰もが自分のものさしでしか生きれないのだから、誰もが「自分勝手」に見えても不思議ではないが、他者に「自分勝手」のラベルを貼るのは「おもいやり」を感じられていない心の叫びなのかもしれない。
困難をアートに
アートを気づきに
気づきを行動に
by ガブリエルロス (ファイブリズムズの創始者)