エッセイ20180131
エッセイ20180131
1月終わりだということに驚いている。インフルエンザになった。今日で5日目なのにまだ38度以上を彷徨っている。
ムスメさんは甘えたい気持ちを我慢して気丈に振る舞っており、頼もしくもあり、胸がつまる。坊やは大好きなジジババの家でずっと過ごしており、もう4日姿を見ていない。こんなことは初めてだ。坊や見たさに布団の中で動画を何度も見てニヤけている。気の良い義親で本当に助かる。
一週前に夫がインフルらしきものを患い、病院にはいかなかったものの3日程度で解熱していた。身体のギクシャク感がハンパないので、夫には毎晩楽健法をしてあげていた。お互い様と言いながら夫も背中をマッサージしてくれたが、さすがに4日目も過ぎると、いつも2人でやっている家業家事育児諸々の仕事が1人にのしかかってくることに疲れ果て、一向に38度を下回らない妻の容態に苛立ちを隠せなくなってきている。その気持ちすごくよくわかる。
人は病気になって弱いものになる。弱いものの気持ちがやっとわかる。誰しもがある日急に弱者になるのだ。だから弱者を支援するのは当然なのだ。
理屈ではそうだとわかっている。でもいざ、自分とパートナーが病気になったときによぎるヒドイ理屈はこうだ。
私はこの人が○○できる人だから一緒にいたいと思えているのであって、何もできないこの人はお荷物なのか、と。○○できるのも、寝込んでいるのも、ひと続きで同じこの人なのに、同じように大事にしてあげられない自分がいる。
でもこういう意味かもしれない。日常で2人は相当に助け合って生きているということだ。だから、一方が倒れた時のショックがデカい。負担も大きく感じる。こころ細い。いつもしているリラックスした相談事もできない。だから辛く感じ、いつもの○○できるパートナーを求めるのだ。
いっときの病気を乗り越えるくらいの耐性はなんとかあって、病気が完治する。健康への感謝とともに、あれもできる、これもできるパートナー同士に戻れれば幸いだ。
問題はもう戻れないほどの障害や老いが目の前に来た時だろう。パートナーが存在しているだけでよしとする境地。