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地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

なぜ保育園に子を託すか

乳幼児の1日の過ごし方をまずは整理する。

 

7時 起床 遊び0.5時間

9時 保育園 7時間(うちごはん0.5+昼寝1時間、遊び5.5時間)

16時 帰宅 遊び1時間

17時半 夕食

18時 遊び1.5時間

19時半 風呂身支度 遊び0.5時間

21時 就寝

 

活動時間13時間のうち、保育園に通わせると家での遊び合計3.5時間

これが保育園に通わせない場合、家で遊び9時間になる。

 

https://www.instagram.com/p/Bd1U29gAlgL/

 

4月から1歳児の坊やを保育園に託すことにした背景について書く。

 

(1)子どもに質の高い遊びをして欲しいから

子どもにとっては遊びが全て。

 

我が家での保育者=親、祖父母

当然、子どもが自分の命を自分で守る判断力がないうちは、保育者が必要である。

 

現状、1日の半分は祖父母に相手してもらっていて、その間に仕事したり「大人の時間」を過ごしている。でも23日続けて丸1日私が相手することもある。

 

この家で、祖父母や夫が一緒にいても、我が子は私を選ぶことが多い。なんせおっぱいついている、最大オキシトシン提供者の、ひょうきんな母だから。私が子どもと遊びたいかどうかに関わらず、お茶飲みたいタイミングで毎日「遊ぼう」はやってくる。

 

子どもの喜ぶ顔が見たい、子どもの気持ちや意思を大事にしたいと思う。が、リクエストされる遊びにつきあうだけでは私はすぐに退屈してしまう。ある時は彼らの期待に応えられて嬉しいという気持ち。でもある時は自分を抑圧して付き合ってやるという気持ち。

 

子どもをよく感じて、子どもとの違いをよくよく感じているが、私は大人である。

 

彼らの命を危険から守る保育者ではあれても、遊び相手としては45分が限界。これが何時間とか、毎日続くと、もうしんどい。ここがプロの保育士や幼稚園教諭との才能の差のように感じる。(もしくは自分の子と人の子は違うという理屈だろうか。)

 

家という環境=生活と仕事場を兼ねている今、家で「本気の保育者」になるにはノイズが多すぎるという理由もある。「子どもと遊ぶことよりもやりたいこと」が出てくるのだ。子の年齢の低さゆえ彼らと一緒にできることにはそもそも限りがあるが、「その中でも子どもと一緒にできそうなこと」をいつも提案してみる。けれど、なかなかうまくいかない。ムスメさんは私の「海行こう」という誘いを3回に2回は断る。私の声かけや場つくりのスキル不足か、うまく子どもをその気にさせることができない。

 

そして私は疲れると、子に動画を見せて過ごさせる。動画がなかった時代に親にならなくてよかったといつも思うほどに、動画に自由をもらってホッとする。だけれども、動画に子守させているのは自分のくせに、罪悪感が募る。「もっとこの子にとって質の良い保育があるはずなのに私はそれを実行できていない」と。

 

人はこれを完璧主義だと呼ぶのだろうか。

そしてこの(1)の要件を満たすために、私は子どもを託す先の保育教育機関の質を問う。

 

 

 

(2)大人の時間(≒就労)が必要だから

 

幼子と1日の大半を共に過ごすことは、誰しもが理想だと思っているだろう。私も理想を追い求めて、家でジジババもいる自然のある環境で、子どももいつつ、できる範囲で仕事しよう、と五年やってきた。が、現実は上記の通り、「子どもとの時間」を「大人の時間」ほど心から楽しめない自分がいる。いや、本気の「子どもとの時間」もあるんだよ毎日合計0.5時間~4時間くらい(ムラあり)。同じく「大人の時間」もあって、こうやって文章を書いて頭を整理したり、ウエコロジーの事業のことをやったり、百姓仕事をやったり、色々出来てはいるんだ。でもこれを5年やってきて、「大人の時間」で得る活力やフロー状態(高度な集中状態)の欠乏症に今なってる。本当にこれは深刻で、精神的によろしくない。

 

5年間同じことでずっと成長しようともがいて、悩んでの繰り返し。私は親になるまで成果至上主義的な世界観でしか生きてこなかった。いかに速く、多くの成果を出すか。その過程におけるフロー状態から活力を得て、さらに成果を認められることで重ねて活力を得ていた。そんな私が「ただ在る」ことで幸せになろうともがいているのである。時代の流れも相まって、そういうシフトが必要だと思ってはいる。道半ば。

 

たしかに子どもの世界を私は知った。例えば、子どもが欲しいのは、「歯を衛生的に保つ」という結果ではなく、「自分で歯ブラシを持つ」という行為そのものなのだ。子どもは「ご飯を食べて腹を満たす」という結果ではなく、「スプーンを落として床で音が鳴るかどうか」を確かめたいのだ。

 

子どもをよく感じて、子どもとの違いをよくよく感じているが、私は大人である。

 

「子どもとの時間」においては彼らの世界観を理解する大人でありたいが、私は私で「大人の時間」や自分の活力の源泉が必要なのである。

 

 

(3)外部に保育をお願いするのが精神衛生上良いから

 

上記見てても思うが、深刻に考えすぎ!私は「子どもとの時間」の割合が大きいと自滅するようだ。適度に時間を配分しなくては。もしくは、(繰り返すが)考えることより感謝することなのかもしれないが。

 

子どもが大事だからこそ、ベストな選択をしたいと強く願い、常に理想を求めては、自分にその器がなく、苛立ったり罪悪感を覚える毎日。しまいには「自分のやりたいことを考えないようにする」という抑圧さえ自分にしているのである。

 

この5年あまりに「幼い我が子とこの恵まれた環境を活かして百姓仕事と両立」的な理想にしがみつきすぎて、「育児は今しかない最大のお役目」「地球平和の前に家庭平和」を背負いすぎて、結果、苦しんできたように思う。(まあこれは修行的な道を選んでしまう私の癖でもある。)

 

「全部オキシトシンのせい」にしておこう。子どもは誰が一番オキシトシン出してくれているかわかるから、子どもはそういう人を求める。求められたらそれを叶えようとしちゃうでしょ。それも全部オキシトシンのせい。これからは愛を家庭の外にも伝えて行くフェーズがきた、そう前向きに言っておこう。

 

母が精神的に健康であることが家庭平和のキーだって言われるのは正直しんどいけど実際そうでしょう。たびたび語られる「母が幸せじゃなければ、子は幸せになれない」って言葉はこういう葛藤の後に発せられるのだと思った。

 

 

以上の通り、子どもへのベターな遊び環境の担保、精神的な理由で私は「大人の時間」が必要であり、その時間で社会へ愛を伝えて行くことにしたから、保育園に子を預ける。

 

(深刻!)