2017年版ジェンダーと肉体、親子論
「身体」は見れば男か女かわかることが多いが(両性具有の身体もあるが)「精神」は男か女か、という問いはなにによって生まれるのだろうか。何をもってして女で、何をもってして男なのか、はもちろん個人の中での納得感なのだが、この記事を読んで、それが「時代性」を含む「ジェンダー」だけではなく直感的ななにかに起因しているように思った。ここに登場する人たちが幼少期から「自分は(中味が)女だ、あるいは男だ、もしくはどちらでもある、もしくはどちらでもない」と直感している書き振りが、無意識的な何かがその定義づけをしているように思えたのだ。
なんで私がそのことに興味をもったかと言えば、17歳でアメリカ留学した際に最初に好きになった人がゲイだったという経験から始まり、「母親とは、女親とはなにか」にいちいち悩む現在に至る。ついに先月坊やのおっぱい(授乳)をやめ、同時にムスメさんもそれを触るのを一切やめにしたので、5年ぶりに私だけの身体になった。今や彼らが私に甘えるのは「女だから」という理由ではないのである。私を求めて泣き続ける坊やは、彼の生きる世界の中で「一番頼れる存在」として私を必要としているのであり、「女親」だからではない。
ただし、過去は事実である。私の肉体の一部として10ヶ月を過ごし、私の血を乳として飲んで一年以上を過ごして生きてきたのが、彼の人生のほとんどであることは無視できない。子に安心を提供してあげたいと私が強く思う限り、子が泣けばよしよしと抱く、その応酬をこれからも繰り返す。
「それが母親ってもんだ」今までなら話はその一言で終わっていただろう。だが今の私(と、時代)はそう簡単には言わせない。もちろん、その要素は多かれ少なかれあるのだけれど、坊やの行動は、彼がが生まれてこのかた学習した結果であり、私が毎度行動した結果なのだと言いたい。
子の持つ素質か、環境か。親の持つ素質か、環境か。(いつもの問題である。)
生まれた時から母親だけでなく、父親も、祖父母も、叔母叔父も、保育園の先生も、近所の人にも慣れさせること。母親がいなくても眠れるようにしておくこと。ポニョのリサのように、自分を「ママ」や「お母さん」と呼ばせないこと。などなど、環境作りは(その時代や文化の影響下で)親がイニシアティブをとり、関わる人全てで為すものである。
子どもをみんなで育てる、とか、社会で育てるという言い方がある。人類が多様性を尊重しようと言うならば、ますます「みんなで育てる社会」の実現のために創意工夫していく必要があると思う。時間だけは万人に平等に与えられているが、自分や家族のもつ身体的、精神的、経済的特徴はあまりに違う。しかも今は良くても、いつそうじゃなくなるかはわからない。子を生かすために、母親だけでどうにかしよう、家族だけでどうにかしよう、という風に考えなくてよい。(もちろん、そうしたければすればよいが)
一方、子どもは、一番頼りにしている親に「準ずる」ことでしか生きられない。虐待をしてしまう親がいて、その子の里親となって生きる親がいるのだ。(虐待され、里親もいない子もいることも事実だ。)決して虐待を擁護するつもりはないし、”子は親を選んで生まれてくる”なんて言われるとなぜ虐待死をさせてしまうような親の元にその子が生まれて来たのかいつもわからないのだけれど、「どんな子にとっても親は重荷」だということだけは、子が「親ありきの環境ありきの人となる」という意味で納得である。
発達心理学という”一説”によると母子分離という考え方があるが、それさえも2017年の現在においては支持するかしないかは個人の自由なのだ。ただ私は上記の時代観を持ちつつも、誰しもが胎児だったという肉体的な事実は、赤ちゃんというふにゃふにゃの生き物にとって、また十月同じ身体で生きた母親にとって、一大事で間違いないと思う。
何より、個人差はある。人の違いは「限りなくグラデーション」なのにつねに「分別」をつけたがる。たくましい女、女々しい男、中身は女で身体は男、男を好きになる男‥それは差別や対立するためでなく、個人が自分が何者なのかを整理するためであり、自分で自分の選択をして、自分の人生を生きるためなのだ。