nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

働き方を見直すコロナバケーション前夜(2020.4.8)

ぽわんぽわん、ところどころに山桜が咲く小さいお山、あたたかな陽の光と、勢いよく吹き抜けるまだ冷たい風。勤務するこども園の環境は素晴らしいが、保育所において三密は避けられない。だっこはするし、鼻水はつくし、うんちも拭くんだからね。しかも新学期!朝は泣き声のサラウンド、わずか1歳や2歳であればなおさら、安心させてあげるのに、ぬくもりが必要。IT業界勤務を経て感じるのは、本当に「心と体」で仕事しているということ。
 
それでも親が働く必要があれば、家にだれもいない核家族であれば、保育所が必要。「働く必要」の意味は、この緊急事態宣言でライフラインの維持に必要とされる業界であること、もしくは、日銭を稼がないと食べていけない不安があること(税金による補償必要、いまこそベーシックインカム!)、もしくは、ここで休むと解雇されることへの不安や、はたまた、働くのが生きがいというのを含む「必要があるとの思い込み」ではないだろうか。そもそも日常を変えたくないという欲求もあるのかもしれないが、とにかく今は「大人が働くのをやめる、または働き方を変える」特別なコロナバケーションなのだと思う。
 
東日本大震災の時、東京のネットいじめコンサルタントだった私は「働く必要」がほんとうにわからなくなった。平常時には頼りにされても、311の渦中では必要なかったと思うし、実際震災後1週間はリモートで必要な連絡をするので足りた。目に見えない放射能は恐ろしかった。今でも恐ろしい。
 
そして現在。夫のヘアサロンと、子ども園のスタッフ、どちらもこのご時世に引き続き必要とされている。必要な仕事に携わっていることは嬉しい。311時点では他人事として「非常時にも必要とされる仕事」の大変さや緊張感について想像はしていたが、今はまさにそれが自分ごとなのである。どんな時にも(非常時にとくに)必要とされる仕事というのは誇り高き仕事であるが、仕事と家族とのプライオリティについてはシビアである。というか、私自身は死んで美談として語られたくないし、まずは自分と家族で生きのびたい。
 
今回の新型コロナウィルスは何が怖いかって、自分がウィルスのキャリアーになり、同居する高齢の義親や、勤務先の呼吸器系その他の基礎疾患ありの子どもに感染させる、ということである。私自身は健康体であり、無症状のキャリアーになる可能性はある。自分のせいで家族を失ったという悲痛なTwitterも読んでしまった。
 
また、この田舎町で頼れる医者がどれだけいるのだろうか。中高時代の同級生や先輩などに医者が何人もおり、SNSを通じて専門性ある医者が不足していること、医療現場が混乱しつつあること、ゆえの本気の「Stay Home」のお願いが次々に聞こえてくる。東京都医師会もそう言っている。
 
こちらは田舎で、自然も癒してくれるし、密度が低い。とはいえ、となりの豊橋市では陽性の人が出てきているし。愛知県も明日から小中高校は休校になった。親も同居で夫も在宅勤務のため学校が休みになることについてはなんとも思っていないが、私もこども園の仕事を休むべきなのだろうかという点に迷いがある。こども園の親が働き方を変えない限り、新学期に慣れない乳幼児たちが泣いてやってくる。私なんて担任を持つわけでもなし、週二回しかこない身なので運営上いなくてもいいが、いたら助かる存在なのだ。園としては可能な限り自宅で過ごすことをお願いするとはしても、在園時に1号(幼稚園)の子は少なく、ほとんどの子が保育園(2号、3号)という現実。
 
何をそう迷わせるかって?それは子ども園の仕事が楽しいからである!新しい環境、新しい出会い。困っている子どもたちや同僚を笑顔にする喜び。この仕事の、今しかない、ワクワクが好きなのだ。
 
また、子ども同士の遊びはこの状況下でも必要だと思う。こども園はその点は最高の環境だと思う。
 
私自身のニーズとしては、このブログでさんざん書いてきているように、我が子とずっとべったりだと鬱になっていく傾向が過去にあったことからも我が子と離れる必要性があると思い込んでいるところはある。とはいえ、ムスメさんは自主学習もできようになった小学二年生、坊やももう4歳になった。暴君の坊やに振り回されてばかりだが、誰にでもよく懐き私に執着しない性格。私もダンスや歌という自分解放ツールを手に入れ、今なら状況は違うかもしれん。
 
私にできることはなんだろう。皆がそう思うだろう。
慈悲という言葉の意味は誰かの助けになるよう行動する慈しみと、何もできないことの悲しみの両方を含むらしい。
ラブコロナバケーション、見極めと変化の時。