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地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

夏休みの宿題の意図

作文もまともに書いたことのない一年生に読書感想文、原稿用紙一枚半。個別懇談会で夏休みの宿題の説明はあったけれど、「出題意図」の共有まで踏み込まれてはいなかったし、私はあくまで「子どもの」宿題だと思ったまま夏休みを迎えた。そして出校日を翌日に控え、近所の先輩保護者たちとも宿題談義をするうちに「学校に通っているのは子だけど、これは”親の宿題”なんだ」という自覚をやっと持ったところである。

 

学習指導要領にもそう書いてあるのであろうか?「学校は”保護者に”宿題をやらせることにより、学習行動を習慣化する云々」など。だからといってのび太のママのように「宿題やったの?!(ヒステリー)」でしか関わらない親にはなりたくない。

 

提出期限まで1週間を切り、学童を休ませ、読書感想文の日を作った。合計2日。本人の体調が最高でなかったこともある。

 

くだんの読書感想文である。まずは本を読まなければ始まらない。ムスメさんは同じ学年の女の子に人気の「ルルとララ」シリーズを借りてきて、課題図書に設定したが、文字数がまあまああるし、とにかく「それがいいの」と言う割には本を開こうとさえしない。しょうがないので(1)一行づつ交互に読む(2)1ページづつ交互に読む、を提案し、読書の時間を作るも、最初の4ページくらいは楽しく読めるが、すぐに飽きてしまうの繰り返し。やっと29ページまで行ったが進まない。

 

私自身は先が気になって最後まで1人で読んだが、スイートポテトのレシピなども満載で、最後のメッセージも良かった。それを伝えてもムスメさんは一向に読む気なし。

 

こっちは本気でやっているのに、子どもがダラダラと集中しない、というすれ違いがあるとき、私はいつも怒れる。私は魂を込めて今この話をしているというのに!(共感したい)他にしたいことが山もりある中、この時間を作っているというのに!(共感されず、もはや関心を失いかけている)ムスメさんの言い分は「やりたくない」「興味ない」「気分じゃない」である。休憩をはさんだり、興味を持ってもらえるように促す工夫もするけど、すぐネタ切れ。そうなれば「じゃあやめよう」である。興味ないことをやってもしょうがない。そもそもこの宿題の必要性を理解していないし、学校に言われたことをすべて遵守してオールAも狙っていない。脅し文句でもなんでもなく「じゃあ宿題なんてださなくていい」と私は本当に考えている。

 

でもそう言うとムスメさんは泣いてしまう。ああもうやだ‥。宿題にこんな気持ちにさせられるなんて。宿題なしという学校がこの日本にもぞくぞくと出始めているというのに。公立小学校でもついに!取手市永山小学校PTAブログ

 

 

ムスメさんに話を聞けば「やりたくない」という割には「宿題を出さなければ!」という気持ちがあるようだ。話を聞くと「周りの子は出しているのに自分は出さないわけにはいかない」という気持ちと、「先生に良く評価されたい」という気持ちが根強いことに気づく。ムスメさんは「クラスという集団に受け入れられる」ために宿題という成果物を提出したいのだと気づいた。それが宿題である必要性はないのだが、受け入れられたい気持ちはわかる。素直な子だ。私は自分自身が評価に敏感になりすぎて疲弊してきた経緯があるので、つい警戒してしまう。

 

母娘で煮詰まったところで、ムスメさんは夫と話すうちに、いつも読んでいる『ファンファンおもちゃランド』を課題図書にするように気が変わったらしい。私も前々から「(ルルとララでなくて)他の本でもいいんだよ」と言い続けてきたが、夫はムスメさんが「お友達が選んでいるから」ルルとララにしたという点を見抜いていたらしい。夫いわく「ムスメさんの好きなイメージ(ビジュアル)と全然合ってなかった」とのことで、私には全くない視点で助かった。たしかにルルとララはとことんラブリー、おもちゃランドは摩訶不思議ワールドで作風はすごい違いである。

 

ルルとララのスイートポテト (おはなしトントン)

ルルとララのスイートポテト (おはなしトントン)

 
ファンファンおもちゃランド

ファンファンおもちゃランド

 

 

課題図書を変え、夫が促し、30分集中といって、原稿用紙に向かうと、すらすらと感想を書き出すではありませんか?!「しゅじんこうはもんちゃんです。もんちゃんはとってもゆうかんです。なぜなら‥」原稿用紙半分弱まで自分の感想を書けたのには私も感心した。でもまたそこから集中力がなくなり続かず、私「しっかり自分の感想が自分で書けたのだから、原稿用紙半分で出せば?」娘「それじゃダメなの(泣)先生が600字以上って言ったもん」の応酬を繰り返す。

 

ラチがあかないので、ページをめくりながらここはどこが面白かった?何が好き?などと私が聞き出してメモ、それをムスメさんが原稿用紙に書き写すようにした。ムスメさんが「ママの字が汚くて読めない」と文句をつけるので、次はパソコンに打ち込み印刷したものを渡した。パソコンに打てば、書くより早くて漢字も変換してくれるからねーだっ。

 

そして‥ついに完成。母娘で達成感をやっと共感できたのは良かった。原稿用紙1枚半というのが私たち親娘にとって、高いハードルだけれど、けっして乗り越えられない高さでもなかったようだ‥やっている最中は宿題いらねー95%だったが、終えた時にはやってよかったという気持ちにはなった。

 

一年生の夏休みの宿題の目的は「親子で一緒に本に親しみ、気持ちを話し合ったり、考えを言い合う体験」もっと言うと「親子での共同制作」なのかなと感じた。まさか「学校として〇〇新聞大賞に応募するための作品集め」だったらそれは止めたほうがいい。(もしそれが学校や教員の評価に繋がるなら、そこも考え直したほうがいい)

 

親子で関わりを持つこと、学習などの体験を共にすることに意味はあると思う。夏休みくらい、そういう時間をとってほしいんです、と言われれば私は納得する。体験が大事で、過程こそに意味がある。そうであれば、アウトプットの形はなんでもいいのではないか?原稿用紙何枚でもいいし、絵があってもいいし、子ども1人ではなく、親子でということが大事なのであれば親が書く部分と子が書く部分があればよいと思う。もちろんその成果物を学校は単一のモノサシで評価することはできないことを前提にしている。

 

ただ、貧困や障害を抱えた場合など、家庭の状況によっては、子どもに親が付き合っている時間がとれないかもしれない。そこは考えないといけないだろう(学習相談ってそのため?それもわかってない)。一方、”宿題絶対信者”の親がのび太のママのようにヒステリーに「宿題やったの」としか言わなければ、子どもは苦痛に違いなく、宿題が完成していなければ二学期に学校にも行きたくなくなるだろう。

 

そもそも同じ1年生でも読み書き能力には個人差がある。支援級の子は感想文は免除であるなら、読み書きの苦手な普通級の我が子が原稿用紙半分でも自分で自分の感想を書けたのだから、それでいいではないかと私は思う。苦痛あってこその成長だという考え方は私の中にもある。”一律(平均化された)の与えられた課題”に違和感をもつ親ならば、我が子にちょうど合った分量を、学校側の”めやす”を参考にしながら決めることができる、などの柔軟性が学校にも子どもにもあったらいいのに、と私は思う。1年生の時はそうでも、2年生になればほとんど自分ひとりでできちゃう子もいるだろうし、6年生になっても大人のサポートなしでは課題の整理と進行ができない子もいるだろう。宿題に共に取り組むことが、親も子を知るよい機会であるとは思った。

 

元教員の義母ともこの話をしたが、学校側も多くの苦悩があってこの宿題を出しているに違いない。職員室では「これは親がやったぽいなぁ」などの会話が飛び交うんでしょうか?実際、他の親たちの話を聞けば、みんな「親がやってる(当然)」と言っていた。そして彼らは自分の作品をスマホにおさめた写真で見せてくれるのだ。もはや製作者の愛着さえ感じられる親によるポスター笑 そうともなれば、親の名前で宿題を出せるようにしたっていいとさえ思えてくる。この地域は子どもが少なく、運動会の後半は地域の大人の運動会になるのだが、まるでそのように。先生たちはどう思っているのか?そういう放って置かれたままの疑問について、親と学校でざっくばらんに話をするワールドカフェがあればいいのに、と思う。

 

もちろん宿題は枝葉の話であり、根本はこれからの時代に生きる子どもにどんな力をつけてほしいのか、と言う話なのだろう。