共感疲労、無常の気づき
2019.311こちらの講演を聞きに三河湾の向こう側まで行ってきた!
完全に娘に「共感疲労」していると気づいた‥。
子育てに、人間関係に共感は大事。子どもにはたとえポジティブだとしても「エライ!」「いい子!」などの評価ではなく、「掃除が好きなんだね」「作るのって楽しいよね」「一緒にやろう」など、ともに感じる”べし”。
私はその”正論”を厳守しようとまたもや力んでた。
生真面目で力むのがほんと癖。情報が入ってくると影響されやすいとも言える。
子どもの幸せを願う気持ちはあるし、はたまた「間違えたくない」という恐れがあるのかもしれない。
ここ最近娘は私にすごく執着しており、私の身体を触ったり、休みの日に物理的に同じ空間にいないと不安がって泣く。私は身体的に、精神的にベタベタされすぎるのが不快で、されればされるほど、自由がほしくなり苦しい。ここまでが、「私」に起きていることである。
彼女が泣くと、私も胸が痛い。それは慣用句的なことではなく、身体的にそうなのだ。泣いている娘が憑依したかのように、それを思い出して自分もしくしく泣けてしまうこともある。
ひとつの身体の中で相容れない二人分の感情がお互いを批判し合い、葛藤が起き、鬱みたいになっていた。
しかし後半は「彼女」に共感している自分である。私は過剰に共感し、それに疲れていたのだ。
これについて、今回の講演ではよく説明されていて助かった。
子どもが苦しんでいても、それは子どものもので、自分のものではない。
慈悲と共感疲労は違う。
そして藤田さんによると慈悲(コンパッション)のベースはマインドフルであることらしい。
思考で生きるのではなく感じる。首から上でなく、腹で生きる。
そう最近周りからよく聞こえる。正直それがまだ完全には(まさに)腹に落ちてないのだが、時を同じくして、友人の死が教えてくれることがあった。
無常。誰もが死に向っている。明日事故で死ぬかもわからない。
何事も見方による。世界は自分の解釈で映し出されている。
例えば、手に針が刺さっている画像を見る。するとそれだけで「痛い」と身体が反応する。
「これは針の治療のためにやっています」と状況を説明すると、画像を見る人の痛みは軽減する。
感覚さえもが、見方による。
マインドフルネスのことを見聞きするたびに、「では問題の解決や、関係の改善について忘れちゃっていいのかな?」というような成果至上主義な疑問が出てきていた。
極論を言えば忘れていい、ということだと納得するようになった。
今この瞬間、心穏やかに感謝と愛を感じて生きることが何より気持ちのよいことで、それで十分。
また私の中で、先日のファイブリズムのクラスでの体験が、つながる。
困難をアートに、アートを気づきに、気づきを行動に。
呼吸やダンスで自分の中心に戻る。穏やかに感謝と愛を感じる。そこからいつでもリスタートできるものなんだと。生きてさえいれば。
本当に必要な気づきは忘れない。それを行動に変える。
そして、問題や関係が変わっていく。そういう順序。
短時間で生じては消える感情もあれば、人間の関係性のように何年もの時間をかけ生じては変わって行くものもある。
子どもも親も成長する。それはよくわかっている。
しかし今が辛いのだ。逃げたい、自由になりたい、一人になりたい。
この今の苦しみを苦しみとして受け止め、必要に応じて一人になり、また自分の中心に戻る。
そして目を開ければ、またここに家族との生活はある。
生きてさえいれば、自分が穏やかになれば、時が経てば、世界は変わっていく。
問題だ!と思い悩んで、暗い気持ちになって、あげくの果てには、共感疲労。
そのまま死にたくないね。