nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

エッセイ20180211

エッセイ20180211

 

昨夜作ったというメヘンディのコーンを披露してくれたムスメさん。前に友人のみおりちゃんが作ってるメヘンディコーンを見たそう。机片付けようと言いつつ、お腹痛いからとお布団に寝転んだり。まぁ日曜だから何してもいいんだ。私もインフル以降食べるとなんか胃のあたりがきゅーっとなってお腹痛いことが最近よくある。ムスメさんをだっこで一緒にコーンの作り方をYouTubeで見てるうちに腹痛も治り、セロファンでメヘンディコーンのやり直し。うまくできた。ただ、爪とか手とか塗ってしばらくじっとしてなきゃいかんので、子どもとやるのはそれが難関だね。

 

梅林のネット張りが途中で、私も夫も気になっていた。メヘンディ遊びもできたし、午後はイドバだから子どもも一緒に出かける、だから午前は仕事してもよいのでは?おばあちゃんも家にいそうだし。問題はムスメさんが納得してくれるか。ムスメさんは鼻水が出るので母屋で過ごすことにして、私は野良着に着替え、防寒、お茶の準備。いつものエプロンが母屋に置きっ放しなので、取りに行くと、ムスメさんが泣きついてくる。「行かないでぇ」。

 

この5年間の悩みの全てがこれである。子どもはママといたい、私は自分のやりたいことがある。でもママは一人しかいない、時間は今しかない。

 

習いたてのNVCを思い起こし、ムスメさんの今の気持ちになってみる。共に感じることを共感という。

 

「ママに甘えん坊したいから、ママが仕事に行くと思うと悲しいのかな」

「ママが行っちゃうと思うと寂しいのかな」

「お鼻がでるから、この辺がスッキリしなくて、重い感じで、気持ちがよくないのかな」

 

そしてニーズを。

 

「ママに甘えん坊してると暖かくて、気持ちよくて、幸せに感じるから、ママと一緒にいたいんだね」

 

自分で言いながら泣けてくる。ムスメさんも大泣きになってくっついてくる。NVCはなんだかクサくて、こっぱずかしいけど、本当に胸が熱くなる瞬間をもたらす。それを気持ちが通じたと感じるのかもしれない。

 

「だから行かないで」

「まだママが行っちゃうかもしれないって不安で、怖い、気持ちなんだね」

「うん だから行かないで」

 

たしかに私の中にはまだ迷いがあったので、正直に気持ちを話す。

「私は今ムスメさんの気持ちがわかったから、一緒にいたいという気持ちと、一緒に仕事するつもりで準備してるパパになんて説明しようって迷ってる」

 

泣きじゃくるムスメさん。母は自分を置いて行ってしまう、という不安感がおおきくなってきている。

私はそれに対してすごく不安を感じてしまって、ムスメさんを安心させてあげたいという自分の強いニーズが勝つ。勝ち負けの問題かと、NVCやってて、いつも引っかかる。わたしにはまだそこがわからない。あと、話の最中もあっち行こうと私をひっぱる一歳の坊やをとりあえずの対応をしながら。Koko さんが言ってたけど、子の気持ちを聞くにも、まずお母さんがavailableじゃないと、と。NVCは時間も使う。全身全霊で、とはこのことだと理解し始めた体験だった。その場に、相手に集中すること。

 

「いいよ、今日は仕事やめにするから、一緒にいよう。何かしたいことがあるのかな?」

 「ママのだっこで一緒にアニメ見たい」

 

ここでまた自分の仕事をしたくなる私。坊やをだまじだまし抱っこで動画を見せてたまに一緒にリアクションしながらも別画面で自分の仕事をしていることを思い出したのだ。

 

「確認だけど、ママの抱っこで過ごしたいってことと、一緒にアニメを見たいって二つのことがあるよね。おんなじアニメを一緒に見ると、一人で見るより、ずっと楽しくて嬉しいのかな?」

 「うん。一人で見るのはつまんないもん。」

 

この言葉がこの時の出まかせでなければ、動画に子守をさせることに私はますます罪悪感を持つだろう。嗚呼この先どうやって自分の時間を工面しようか。私は常にこれが悩みだ。早起きしろ、早起き!

 

日曜の午前。あえて仕事をしなくてもよいと世間は決めている時間帯。でも私たちにとって曜日は関係あれどゆるやかで、店にお客さんも来るし、自然や天候の状況で済ませたい百姓仕事もある。ムスメさんも平日園に行くかどうかは、それも含めて、前日に決めることにしてるのだ。

 

つまり、今仕事せずにムスメさんの気持ちを優先するのも、自分次第なのだ。今日は仕事しない。ネットは張りたいけど、今日絶対やらなきゃいかん訳じゃない。今のムスメさんの泣けるほどの気持ちを知って。

 

結局坊やもムスメさんも私も楽しめる「おさるのジョージ」を二本、3人で見る。(ところで映画の「おさるのジョージ1」は酷いので二度と見ない。あのステキな黄色い帽子のおじさんが全く別人なのだ!)

 

家でゆっくり午前中を過ごし、午後はイドバへ。「どこまでが甘え?」をテーマに今日は座談会。子育てが終わって孫の面倒をみる世代、子どもが中高生の世代、子どもが小学生、乳幼児の世代、今回は妊娠中の方も。あとは保育士として乳幼児と関わっている、という視点もあった。

 

甘えに明確な線引きはない。子の個性、状況によって、柔軟に。だけど、親は躾(しつけ)は一貫していなければ、というプレッシャーを自分に課してる。躾をして、社会で通用する立派な人間になってほしいと願っている。子育てが終わった世代の方からは、そう思って厳しくしてたけど、もっと柔軟性を持って接してあげられたら良かったとの声も。

 

自分の思うような世界にしたいという欲求をどうハンドルするか。現実には他人との関係の中でみんなが納得できる世界にしていくのだが、それは愛でもあり、しんどくもある。まさに今朝の私たち親子がそうだった。

 

例えば、物を独り占めしたり、横取りする子とされる子にどう声かけしたらよいか。物を横取りした子、貸してあげることにした子、それぞれの気持ちを聞く。今日は横取りという形になっちゃったけど、貸してもらえて嬉しい、その経験があれば、次に自分が逆の立場になった時貸してあげられるベースができると大人は信じる。そして重要なのは、本当にその後いつか、そのような状況が来た時に、その子が貸せるようになったのか、成長を大人が見守れるということだ。子どもは常に成長の階段を登っている。

 

また高校生の事例。不登校気質だと自分で自分を知っている少年が、それでも学校にほとんど行っている。だから休みたい、と思った今日は休ませてくれてもいいじゃないか、と主張する。お母さんは悩みながらも、本人がしたいようにさせる。

 

その子の性格や経験を共有している大人が、その時々の子の気持ちにどう寄り添ってあげられるか。どこまでが甘えか?の問いは、私の中でそのように変換された。

 

坊やが遊びたがるので今日のイドバの話にはほとんど参加できなかったのだけど、ひそかに今勉強中のNVCにさらに期待を持った。たしかにNVCというプロトコルを使うと、自分が世界を愛のある世界に変えていくことができる気がしてくる。