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地球平和の前に家庭平和

家族の業は個を紐解くガイド

たとえば、養子縁組した家族では、血縁といっても血の繋がりはない。でも家族になった。子ができない夫婦の元へ、言葉は悪いが親に捨てられた子がやってくる、その時点で子は”二筋の”家族の業を背負う。そもそも夫婦は他人同士、血が繋がったものでもない。そう考えると、同じ家で一緒に体験する毎日が人を家族にする。家族という関係にある人だから、健康じゃないと心配するし、将来のことなど気にかける。

 

「家族なんだから」それは温かでもあり、苦しくもあり、この世でなによりも重たい言葉ではなかろうか。人間が体験しうる修羅場はまず家族にある。変に気を使わないからこそ、喧嘩してしまう。当たってしまう。それを拗らせて離婚など家族を分散、問題を小規模化する人も多い。子どもは家族だけど、夫はこの先家族じゃないですよ、と。そうは言いつつ養育費はもらったりする。子を養うことも、家族の借金の肩代わりも、葬儀屋の手配も結局は家族の役回りだ。

 

家族とはいえ個人の集まりなんだから、あの人はあの人、という個人主義的な視点で家族を扱うことは、家族メンバーへの無関心なのだろうか?経済的にも精神的にも自立した大人同士が、法律上は婚姻関係になくとも、家族になることを選ぶ、ということもイマドキあるだろう。実際、高校時代にアメリカの留学先でお世話になったホストファミリーはそうだったし、尊敬できるカップルだった。先日講演を聞いた松居和さんによると現代のアメリカでは家族が危機に瀕しているらしい。アメリカのティーネイジャーの話題によくあるのが、「次のお父さんとお母さんの話」だそうだ。個人主義の理想的な家族を描いたのが、「みなさん、さようなら。」なのかもしれない。

 

ECDの『他人の始まり、因果の終わり』では末の弟が自殺した時、二番目の弟は電話にも出なかったと書いてある。それに対しECDは、二番目の弟なりの生き残り作戦なんだと解釈している。ECDは自殺した弟の血を拭きながら、全く関わらない二番目の弟を自分とは違う個性として認め、ひどく怒ったり、悲しんだりしない。そもそも静かに絶縁している。

かつては二番目の弟と、死んだ母、最後まで残された父との四人は六畳一間で暮らしており、その時代の石田家は「カエルの卵のようにゼリーで繋がり自他が未分化だった」のに。それが、高校を辞めて働くと決めてから、ECDは個になったと分析している。その後、母が精神的に病み、末の弟が産まれ、さらに母の失踪、赤子を連れての別居、そして病死と続き、「他人様」と自称する後妻を迎えたことで家族がバラバラになる。

他人の始まり 因果の終わり

他人の始まり 因果の終わり

 

 

人のことをよく知らずに人を「個として認める」ことはできるのだろうか。人はみな違う。ではその違いはどこから来たのか。素質(先天的)と今までの経験(後天的)が人をつくる。よく歳をとると頑固になる、というが、それは老人たちの今までの経験の結果であり、その中には自分なりの常識や言動のパターンがあるからだろう。若い人でも、少ないなりの経験から、当たり前を無意識的に作り出している。

人と知り合い、たとえば夫婦として暮らすにも、その違いに愕然とすることがあるのはお互いの素質と経験の現れ。例えば夫がお菓子の袋をすぐに捨てない、とか些細なことでも、夫の親と一緒に生活してみると、なぜ夫がそうなったか説明できる。

興味深いことにそれが夫の兄弟みんなそうか、といえばそうじゃなかったりする。親がAだから自然と子もAとなる。親がAだから補完的に子がBになる。親がAだから子が反発してXになる。いや、もともと子はAという性格なのだ。など。

個を認めるとは、各自の視点で個性が説明可能な状態ではないだろうか。(それに愛を感じるか、嫌悪を感じるか、その先どうするか、が問題なのだが)

 

ECDの末の弟の自殺については、妻の植本一子の視点からも『家族最後の日』に書かれている。植本は感情の起伏が激しい性格だが、夫であるECDは動じず、「機嫌がない」。彼に機嫌がないのは、押しの強い父親から身を守るために、自分を殺し、流れ作業のように全てを許してきたからではないのか、と植本は説明している。

家族最後の日

家族最後の日

 

 

他人の生い立ちや家族との関係を知ることは、まるで病名を知るようなものだな、と最近考える。

 

私は勤めていた時に部下がパニック障害を発症し、仕事を辞めたことがあった。学んだのは、病名をつけることはその人の言動を理解するガイドになる、ということ。この病気にはこういうパターンがあります、と情報提供してくれる。朝起きられない、連絡もできない、症状の一例としてそんな時もあると知っていれば、こちらの当たり前を前提とせずに、彼女の行動を責めずに、じゃあどうすればいいか考えられたのに。鬱も、発達障害も、あえて病名をつけなくても、という考えもあるが、周りの人は病名があったほうが気が楽になると個人的には思う。

forbesjapan.com

 

自分の生い立ち、親の人となり、親との関わり、兄弟関係、生活環境、時代、生きてきた時間。あくまでも当人の目線で聞く生い立ち=その人が背負う家族の業について言語化することは、まるで病状の説明のように、その人を紐解くガイドになる。

一緒に暮らしていて、なんでそんな風に思うの?と疑問に思ったり悲しくなったりする時、ガイドを頼りに相手の行動や思考のパターンを想像できると、少し楽になる。

 

親を、兄弟を、配偶者を、子を、個として認めるとしても、まず彼らの性格と経験を知る必要がある。そうなると、結局家族との関係に戻ってくる。性格は遺伝もあるだろうし、それに周りの人間がどう対応してきたかの経験も、その人をつくる。

性格は遺伝で決まるって本当ですか?日本心理学会

 

そういう意味では、ECDと植本のように自分の子どもに早いうちから家族以外の大人と関わりをもってもらうのは(植本いわく核家族に代わる”拡大家族”)、子どもにとっても良いことに感じる。それは子どもの人生にとって持てるカードの種類が増えることで、中にはジョーカーのように何に化けるかわからない因子にもなる。

 

これ系を考えるときに絶対頭に浮かぶ子宮委員長はるも、そういう文脈で子どもを手放したのだろう。

 

そして、もう1人思い出さずにはいられない、大阪二児置き去り殺人事件の母、下村早苗については、その逆だ。誰かに頼ることを知らない家庭に育った。だから、子ども2人は今までの人生で早苗以外には誰も知らない、そういう状態。『誰も知らない』にはそういう意味もあったのかと愕然とする。下村早苗は家族の業を次世代に“引き継がないことに成功”したが、それはあまりに酷いやり方だった。

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

ルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

 
誰も知らない

誰も知らない

 

 

家族の業を言語化するのは、自分の家族を作るにあたって、ある意味必要な行為のように思う。家族の業を語るのは辛い。別に公開する必要もない。歴史上の重要人物なら勝手に誰かが言語化するが、家族の業は万人が背負うものである以上、万人がそれを語れる。植本しかり、そういうドキュメンタリーの数々が、誰もがそれを語ってよいのだ、語ると前に進める、ということを教えてくれる。タブーに挑む勇気をもらえる時代。

 

同時に、業、というと苦しいイメージを持ってしまうのだけれど、母親が背中を撫でてくれて楽になったとか、親に泣きついたとか、そういう温かいイメージの経験も数々含まれている。植本の最新刊『降伏の記録』では、その記述が所々にあったのが印象的だった。

降伏の記録

降伏の記録

 

 

私も母になり、経験したことのない不自由さに、つい、子どもたちが私にすり寄ってくることを嘆いてばかりいたが、可愛いが勝手に口から出てしまうことや、笑顔を見てこちらも笑顔になる瞬間の幸福感にも、もっとスポットライトを当ててあげようと思い直した。

 

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