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地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

二番目の幸運と苦悩、兄弟という他者

我が家の寝る前の定番はNetflixでひと番組みて絵本を読むことなのだが、今日は『しゅっぱつしんこう』だった。昭和時代、都会に暮らすおかあさんとみよちゃんが特急電車から急行電車、普通列車に乗り換えて、田舎へ帰省する道中の話である。

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(田んぼの中の看板が ま ん じゅ う)

ムスメさんに読んでいると、1歳半の坊やがこちらに来て絵を指さし「ぶっ ぶー」「ぶっぶー」と伝えてくる。

ページをめくるたびに「ブッブー」と笑顔で指差し。まあ確かに車両、という意味ではぶっぶーなのだが、線路の上を走るやつは「でんしゃ」である。

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ラピュタは例外)
ムスメさんはお姉さんを代表して「でんでん」と教えてあげる。「でんでん!」とその瞬間は言うが、ページをめくると興奮して「ぶっぶーー!」とまた指をさす。

二番目というのは得である。かくいう私も二番目である。
姉やムスメさんには言いづらいが、何が得かってことを今から解説する。

親はなにもかも初体験の子育てではない。上の子と生きてきた学びや反省が多かれ少なかれある。最初の子には神経質だ。それは5年たった今でも私はそう。なにもかも、何才の親になるのも上の子の場合には未知の世界だが、二番目の子にとっては二度目である。

もちろん個性のちがいはある。男女の違い、環境の違いもあるだろう。でもなんというか、親としての経験の場数が一人目とは違うということがこれほどまで心強いことなのかと。

そしてそれは親の私だけではない。偉大なる存在が「でんでんだよ」と教えてくれる。心強さは母の場数×ねえねのいのちの輝き∞(無限大)である。(大袈裟だけど、ほんとそう)ここにさらに、×父の場数×夫婦の場数×ばばの場数×じじの場数×親子の場数まで掛け算されている。どれかの係数がマイナスである場合は辛いが、私の場合、全てが1以上であると言える。

二番目はなんと得なのか。坊やも最近二語を発する様になったのだが、最初の文章は「ねえね、いっちゃった」である。一語の世界から飛び出す、そのほとばしりは、大好きなおねえちゃんが自分から見えないところへ行ってしまったことを、私に共有しようとするものだった。

二番目にとって上の子は日常の一番の刺激である。子どもは大人とは違う。動きも発想も声も立場もなにもかも。赤ちゃんは本能的に知るだろう、姉(兄)は自分に一番近い他者だということを。母親とは生まれた後もしばらく一体として感じているかもしれないけど、その間上の子をどう感じているのだろうか。

「でんでん」のように言葉を真似するのも上の子をベンチマークすればよい。動きもなにもかもが上の子のマネだ、真似るは学ぶ。坊やの学習能力が高いのは彼の素質×子ども的な動きのお手本が目の前にいるという環境の両方だろう。

母親と子の両者が要領がよくなることで、二番目は母に「上の子の当時」よりかまわれなくなる。上の子にも手がかかる以上、時間的に「上の子の当時」よりかけられないのはまぁ当然だろう。さらに、一人目でべったりだったことを反省した私は、友人の言葉を借りれば、坊やを”いい感じに仕上げ”ている。彼の素質や偉大なる存在ねえねのおかげでもあるが、私以外でも楽しそうで、眠れて、安心できるように母親の私が環境づくりをしているからでもある。坊やについては今のところ、それがいい感じの仕上がりなのだ。

こんなことを知れば、まるで十代の私がそうだったように、「(姉に比べて)親にかまってもらえなかった」と親を責めたり、寂しい気持ちになるかもしれない。それについては、もう、たぶん、不可避。もちろん二番目だった私は坊やとの関わりでそれを意識せざるを得ないんだけど、坊やにとっては姉はたった一人の絶対的な存在だからね。

 

まあそれが二人姉弟か四人姉弟かの違いは大いにあるだろうけれど。兄弟を比較しないっていうのも、同じモノサシで測ろうとしない、っていう意味では賛成だけど、親は比較してそれぞれの個性(違い)を感じていると私は思う。兄弟関係ってほんと、最初の、逃れられない他者だね。