「愛する」主体者になった33歳
2016年もありがとうございました。
家族に大きな怪我や病気もなく過ごせたことを感謝します。
今年は「愛を知りはじめた年」だったなあと振り返ります。「愛する」主体者になったという感じでしょうか。念頭に掲げた「健康」というテーマも、身体と精神はひとつであるからして、家族で生きていく上では愛は重要なファクターだと思いました。
最近ひしひと感じるのがこの土地への愛。地縁。
「人間は好きな所に移動できるけど、家や植物を含むこの土地は動くことはできない」それは頭で考えればあたりまえのことなんだけど、今年までちゃんと感じられていなかったことの一つ。
ご先祖様に毎日供えるご飯、子の誕生記念樹が毎年つける果実、地の神様、元屋敷跡地に佇む(たたずむ)巨木。両親とも田舎がなく新興住宅地生まれの私にはどれも未知のものだったけれど、この5年間、ほぼ毎日家の物を食べ、倉庫に転がってた古道具を使い、竹で塀を作り、椿で油を絞る‥など、この地の資源を活用して生きることは、ご先祖からの生命の連続性を細胞レベルで知ることだった。(もちろん、使えるように整える仕事がまずあるけれど)クラシカルな動機だけれど今年は長男を授かったことも大きい。根ざすというのはこのことか。
高崎家の人間になったね、実家の母からもそう言われたが、つまりそういうことでもある。私もそう気づいていたが、実母からそう言われるとお互い嫁としては共感半分、母親としては淋しさ半分だった。
子への愛を知ると、自分を育ててくれた親の愛にも気づく。子への愛とは、その分、毎日のイライラとか、心配とか、喜びとかも含まれている。たぶん、もっとこうしてあげたかったとか、あの時はこうしてごめんなどの後悔のような念も。そういう意味では実親とは新しい親子関係のステージに入ったとも言える。そう思いながら、東京から田原に帰る。
そして、私はこの暮らしを愛してるんだなあ、といつものように洗濯物を干しながら噛みしめる。落ち着いてヘナを剪定していると、私だけ遠くに行っててごめんよ、という気持ちになる。ディズニーランドに行ったり、ライブを聴きに行ったりしても、今の私が一番望んでいるのは家の敷地内で何かすること。やりたいことだらけで時間が惜しい。どこにいるよりも創造的で、機能的で、理想的に過ごせる。
そんな折に、NHK世界のドキュメンタリーでチェルノブイリの半径20キロ圏内に住み続けるおばあちゃんたちのドキュメンタリーを見て、改めて「ふるさと」について考える。
フクシマ原発の事故があった時の私にとって「ふるさと」は単なる概念だった。「20キロ圏内は人が住めなくするしかない」とか「健康を考えたら避難するしかない」とか、当時と今では、複雑であることには変わりないけど、違う気持ちになる。
この土地と暮らしを失いたくない。平和を願う気持ちは「愛」があると、余計に強くなる。家族を、暮らしを、土地を守りたい。
世界中の苦しみや困難の中にある人たちに平穏が訪れますように。中高時代なんども唱えたその祈りの意味がやっとわかってきた気がする。
とはいえ、いや、だからこそ?引き続き、地球平和の前に家庭平和。来年も目の前のことをコツコツとやっていきたいと思います。