nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

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出産前、東京で会社勤めをしている頃「子どもとデジタルメディアの関係性」をテーマに仕事をしていました。
仕事を辞めた理由は、出産・移住に加え、そのテーマに行き詰まりを感じていたからです。
「子どもとデジタルメディアの関係性は、子どもの家族の関係性、そしてたぶん”身体性”で決まるのではないか」という5年間で考え抜いた仮説は、まさに当時の私には先を見ることができない壁だったのです。
 
すると、偶然か、必然か、私は妊娠しました。

 

 そして元気な女の子が生まれ、すくすくと育ち、この5月末には満2歳を迎えます。
今やジブリ映画を(おっぱいを飲みつつも)フルタイムで楽しめる程の理解力があります。
さつきの真似をしてメイを探し、ポニョの台詞を応用して「まま、だあ〜すきっ!」と人をメロメロにさせ、最近では「よ〜〜〜っっ ぽんっっ!!!」とまるでたぬきのかわいいおなかを叩いたりします。
 
娘はジブリに、動画に、youtubeに、ipadに夢中になります。
砂や石を触る事や、水たまりを踏む事や、うさぎやカタツムリやてんとう虫を視る事にも夢中になります。
 
”夢中”とは”高度な集中状態にあること”だと私は解釈しています。
その集中状態はなんとも言えない快感で、クリエイティブなのです。
私の経験では、良い仕事とは高度な集中状態から生まれるものでした。
 
「努力は夢中には勝てない」(by 村井智建)
 
さて、高度な集中状態を経験することは、いけないことでしょうか。
読書に夢中になる少年と、ゲームに夢中になる少年では、前者は感心で、後者は歓迎できないのではありませんか。
デジタルだから?なんか光る媒体だから?じゃあ電子書籍はNGで紙媒体なら歓迎なの?
「誰かが創造した世界」に集中している、という意味では同じ状態ではないのでしょうか。
 
我が家にはテレビはありませんが、PC, ipad, iphoneで娘は動画を見ます。
最近では寝る前にジブリを見るのが好きになってしまいました。
この否定的な書き様は、デジタルデバイスをずっと見ていると目がチカチカするという実感からの懸念です。
デジタルデバイスに寛容な私でも、せめて寝る前は絵本にしたい、と思う訳です。
 
デジタル作品は脳への刺激が強いから簡単に集中できる、そればかり見ていると、微かな刺激に不感症になる、と言う方もいますが、それって本当なのでしょうか。
デジタル作品と本を比較すると、たしかに1秒に受け取ることのできる情報量にすごい差があります。
たとえば動画は、文章よりも、完成までの行程が複雑です。
まず構想をざっと書いたものがあり、絵コンテがあり、活字の台本があり、演者がおり、カメラマンがおり、スタジオやセットや背景画があり、編集がなされ‥と、プロセスが文章よりも多いと言えるでしょう。
だからこそ、ぱっと見てわかりやすい。感覚的に飛び込んできて、心をつかむわけです。
感覚に迫る=心が奪われる=刺激が強過ぎて子どもを不感症にさせる?
脳波がこう出るからの話ではなく、ここでは「”心”が動くかどうか」の話をしています。
(心とは何か、脳波がそれを決めるかについては私にはよくわからないのですが‥)
 
そう考えると、絵本や動画も同等に、見る作品を選ぶことが大切ということになりそうです。
 
ただ、幼い子どもの場合、まず自分では選べない。そこで親が考える「良い作品」を選びます。
ここでまず一つのハードルがあります。
 
さらに、文字は自分では読めないので、親が代わりに読みます。
親が作品価値を左右する要因になってしまうのです。
 
「どっちーーーん!イタタタァァ〜〜!!こんな所におおきな石!」などと、親がノンタンになりきって読みます。
時にモノマネ芸人さながら様々な声や擬音を操り、時にアナウンサーのようにはっきり冷静に。
ページをめくるタイミングや雰囲気、本そのものをも動かすダイナミックさは舞台俳優、兼、総合演出家、兼、子どもが理解できるよう言葉を選ぶ脚本家です。
恥じらいは「は」の字もあってはならず、絵本のプロフェッショナル仕事の流儀はたぶんそういうものです。
 
どうでしょう、ジブリ映画とお母さんお父さんの読む絵本、子どもにとってどっちが楽しいでしょうか。
 
ジブリが布団で見られる時代に、お母さんお父さんの絵本の読み聞かせは、かなりの「本気」が求められているのです。
言い換えれば、子どもはジブリで感動できるから、その隣でお母さんお父さんはゆっくりできる時代なのです。
私は自分に問います。絵本の読み聞かせに夢中になっているか、と。
 
***
 
とここまで一生懸命に「人間の創作物」とどう関係していくかについてばかり書きましたが、
自然の創造物となると、別の議論です。
 
自然の世界の情報量は最新の3Dアニメーションの世界よりよっぽど情報量が多く
それを直接体感できるからです。
 
色も形もすごい種類がある。カオティックなんだけれども、畏るべき規則性もある世界。
そして巨大な生命体もあれば、目に見えぬ程の生命体もあり、
自分の生まれるずっと前から生きていて、自分が死んでも生き続けるものや、
自分が見ている5秒間に生まれて死ぬものも、無数にいる。
  
自然の創造物をじっと見つめ、耳を澄まし、においを嗅ぎ、いろいろな方法で触れ、時に舌で味わうのは(もうたぶん、エロスなのですが)時間がかかります。
そこまでの高度な集中状態を得るにはその環境へ慣れることも必要です。
自然はyoutubeと違い何度も繰り返し再生できません。
季節が巡るのを待ったとしても、自然の創造に確実性はありません。
 
***
 
文学も映画も所詮人間の作り出す世界は自然の創造物に比べれば薄っぺらです。
でも、それでも、すばらしいものはすばらしい。
人間の創造物に美しさはある。
とても感動してしまう。それを愛でたい。賛美したい。
 
その気持ちと自然の世界での感動はどのような関係にあるのか、
人間の創造と自然の創造、人間は自然の一部なのになぜ?
それがこれから私の考えるテーマになりそうです。
 

NATURE BY NUMBERS from Cristóbal Vila on Vimeo.