nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

苦しい時に声をあげるという態度、苦しみを紐解く繋がり

虐待する側も 虐待される側も 助けてと声をあげ、誰かに頼ることができれば、虐待の関係性から逃れることができるのではないか。

「繋がりが必要」の意味だ。SOSを出せる「第三者」の存在が必要である。「第三者」のあり方について議論がなさており、その一つが「警察と児童相談所が相談の全件を共有すべきかどうか」という論点である。

imidas.jp

自身も虐待サバイバーであり、ティーネージャーを中心とした被虐待児の支援活動をしている仁藤さんの意見は私は真っ当だと思った。数々の現実を体感してきた彼女の筆力には圧倒される。虐待され追い詰められたキワどい心理状態の人たち。暮らすために売春したり、家族が犯罪に関わっている場合には、後ろめたさや怖さを感じ、児相が警察と情報提供しますからと言えば、困った時に駆け込む場所がなくなるのは理解できる。

 

大人も子どもも荒れるのには原因がある。家族の関係性、貧困、病気や障害など。

高崎順子さんのいじめ加害者に関する考察もその通りだと思った。私はサラリーマン時代に子どものネットいじめに関わる仕事をしており、その際知り合った心ある教育関係者の方は皆「荒れるのには理由がある」と口を揃えた。ある中学校の先生はバットを振り回す少年に「何がそんなに気に入らんのか?聞かせてくれ。」と殴られる覚悟で寄り添いながら、バットを握る指を一本一本剥がしていったとまるで学園ドラマのような現実を語ってくれた。問題行動とは彼らからのSOSである。いじめ、虐待、ましてや殺人といった暴力行為そのものを擁護する気はないが、その行動の原因を親身になって紐解いていく繋がりが誰にも必要なのではないだろうか。

socialaction.mainichi.jp

 

仁藤さんは先日、同じく虐待をなくす・虐待から子どもを守れる社会のあり方について共著までしているフローレンス代表の駒崎さんから”マンスプレイニング”を受けたとして、深く傷つき、辛い気持ちでいることについて、延々と気持ちを書いていた。今回の駒崎さんとの一件で過去の虐待被害からのトラウマが再発しそうになっており、なんとか自分の中で気持ちを整理しようと、周囲に理解してもらおうと、辛い、苦しい、助けて!と叫んでいるのであった。

 

駒崎さんとの一件があった同じ週に、仁藤さんは電車内で6歳の少女が性的な被害を受けそうな瞬間を目の当たりにして、少女を助け、周囲に助けを求めたが相手にされないというショッキングな出来事があったらしい。仁藤さんには同情する。同じ頃の娘を持つ身として危機感を持ったし、助けが必要な人を無視するあの電車の雰囲気が辛いという気持ちを私も思い出した。

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こうやってこれを書いているのも、仁藤さんを応援したいからである。(念のために言っておくが、駒崎さんのことも尊敬し、応援している。)会ったこともないし、ネット上には様々な意見や憶測があるけれど、彼女の子どもを守りたい情熱は文章を読めばわかる。そして、発信することで、当事者として自分を救いたいと願っていること(言語化と共感による癒し)、そして、それを閉じた日記でもなく、匿名でもなく公開することは、虐待やハラスメントの実態をより多くの人とシェアすることに加え、そうやって「苦しい時に声をあげる」という態度そのものについて体を張って啓発しているのだと私は受け取った。

一連の投稿で心動かされて僅かだけれどcolabo寄付した。なお、匿名でこれを書いても「匿名であるということは実在するかわからないのでアリマス!」と言われたり、「仁藤の自作自演」などという人たちが出てくるので、私は実名で書いている。

ライ麦の失敗、罪悪感から他者を責めること

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年前に地元の園芸やさんで手に入れた「たねの森」のライ麦ライ麦料理なんてしたことのない、パンもろくに焼けないくせに、麦とか育ててみたいという好奇心、固定種のみを扱う「たねの森」カミさん夫妻への共感、緑肥にもなるという理由でライ麦を私は買って、蒔いた。「自らが蒔いたタネ」というのはその慣用句の言う通りで、物理的に芽をだしてぐんぐん育ち、最後にはたくさん実をつけ、自分で蒔いたタネの行く末をどうにかしなくてはならない状況になった。ムギは6月ごろの刈り取りである。しかし、梅仕事に精を出しすぎて、畑を放置気味だった2018年、長雨も重なり、刈り取りの時期が遅すぎた。しかも、明日こそは刈り取ろう!と夫と予定していた午前中に私は急遽ムスメさんの学校関係の用事を入れてしまった。子供のことは優先度は何より高い。夫は一人で作業することになったが、時期が遅く、高い湿度でカビっぽく、量が多いライ麦を前に、それらを食べるのは危険かもしれないし、倒すしかないと思い至った。昨年は両手で抱えられるほどだったライ麦が、今年はその10倍以上に増えていた。

 

ここのところ「畑をやるということは、料理するということ」を信条にしてきた私には、食べずに捨てるのがあまりに心苦しかった。自分で蒔いたタネ、刈り取りの際に不在にしたことも、罪悪感いっぱいで苦しかった。

 

罪悪感の強さは、責任感の強さなのではないかと思った。一度関わったいのちに責任を持ちたい。ライ麦を一粒も食べない自分を責める。責任を重く感じる罪の意識は苦しい。

 

うまくいかないことがあると「私だけのせいじゃない」とすぐに考え出すのが癖だ。苦しみをインスタントに軽減する方法のひとつが、ロジカルに「自分以外の誰かのせい」を見出すことだ。苦しみから逃れたいというニーズは誰にもあるが、今の私はそれを「他人を責める原動力」に変えてしまっていると気づいた。私は自分のことも責めていたが、夫のことも責めていた。「ライ麦をあんなに広く蒔いたのは私じゃない」「あなたも料理の仕方も知らないのに」というような理由を見つけて。それが夫を苦しめていた。関係性が辛いものになり、何を言ってもギクシャクし、互いに消耗する。誰かを責めるのはもうやめたい。

 

これからは、まず感情や身体の感じを味わうというやり方を試してみたほうがいいかもしれない。マインドフルとはそのことか。

ライ麦をとにかくどうにかしようと対策し、行動することしか頭になかった。事実、それはいつかしなくてはならないことだが。しかしその前に、今を味わい尽くす。私はつらい。苦しい。罪悪感でいっぱい、ライ麦と思ってた関係になれず悲しい。自分の無力さに落胆している。後悔している。ごめんなさい。許してください。

その際は一人になることも大事だ。夫に自分の気持ちを知ってもらいたいとか、共感してほしいなどと望む前に、自己共感である。この文章はすべて夫に話してギクシャクしつつスッキリした後に書いているが、私の場合最初から書くのがたぶん最善策。

 

ギクシャクしつつ夫と話す中でも発見がいくつもあった。これは感情というより、ロジカルな理解が深まったことによるスッキリ感をもたらした。

そもそも私たちの畑は実験的である。慣行農法をしていた義父から譲り受けて4年、エネルギーを少なく、生態系にならい人間が畑をやるにはどうすればバランスがよいのか。耕すのか、耕さないのか。除草するのか、するならどの程度か。そんなことをウエコロジーの背景の畑で試行錯誤している。ムギはナチュラルトラクターと言われるほど、土壌を耕すのと同然の効果があるとも言われている。ライ麦がこの土地に合うとわかったし、土壌も耕せただけでも”収穫”はあるのだ。そしてほぼ素人の私が失敗するのは当然。失敗を糧にするしかない。

 

また「ウエコロジーの背景」というのが一つの味噌だということ。(店の後ろに畑がある)お父さんが余るほど野菜を作る我が家で私たちが食べ物を多く作る必要性は実はあまりない。そもそも、野菜はなんだって買えば済むものである。上記の通り「人間にとっての行為とはなにか、それが美しいのか」を体感する場なのである。私は「畑をやるってことは料理すること」にこだわりすぎていたことにも気づいた。それも豊かすぎる(余らせる)ことへの罪悪感からきていることにも。

 

そして夫はフードロスプロジェクトは都会など人間社会のサイクルの中では特にやるべきであって、田舎には土があり、菌や虫など他の生物もたくさん利用してくれるんだから、とも説いた。それはその通りで、魚醤の時も、梅の時も同じことを考えた。

 

具体的なアクションとしては穂と藁を分けている。それにしても量が多く、カビっぽく食べられるか微妙なので全てを分別するモチベーションが続かない。「畑をやるってことは料理すること」改め「食べたい!は最大のモチベーション」。そしてやはり多いと雑になる。足るを知り、子どもやほかの生命体も世話する身で時間は有限であることを改めて知る。

 

穂(種)を放置すればネズミは寄ってくるだろうし、そこらじゅうにまたライ麦が生えちゃう可能性もある。種は取扱注意。田舎に住んで身につけた知恵のひとつだ。最終手段としては燃やして灰を肥やしにすることだろう。さて、次はいつ作業時間をとれるのだろうか。

労働はエラい、休息は申し訳ないという価値観

週末のイベントに向け、倉庫から使っていない畳を6畳半分出すことになっていた。

畳の上にも、手前にも、横にも‥何やら色々なものが「秩序なく」置かれているのが、目的の倉庫である。私の一番嫌いな状態。取り出したいけど、そこまでの道のりが遠い。なお、目的の畳の上に味噌作りの機械や、潰さずとっておいた段ボールの山を積んだのは他でもない私である。

 

ある程度の無秩序を問題にするのはヒトのサガだが、私はカオスな環境でミッションを得るとパニックを起こしてしまうことがある。最近道具部屋の整理もできて、作業に取り掛かろうという時に目的のものがない!という状況が減ったので、このパニックは久々だった。(その瞬間はそのことにも気づいていない。)

 

畳を取り出すなら、ついでに、倉庫の奥の棚の中身を断捨離して、梅干しや味噌の樽を棚に入れたい。でも時間の関係で、畳を出すだけで、その他は現状に戻すだけ、と夫と話がまとまる。わかるけど、やるならトコトンやりたい性分なので、納得度55%

 

「さあやろう」と言うものの、身体がどーんと重たくて、眉毛が八の字になっちゃう。しかも、朝から左肩の調子が変。

夫にその身体の感じをそのまま伝えた。すると、「ポジティブな気持ちで取りかかれないなら、無理にやらんでいいよ。各自好きなことをしよう」との提案を受け、ほっと一安心する。

ウッドデッキにヨガマットを敷いて寝転ぶ。湿った風、鳥の声、蝶の舞のゆらめき。自然ってなんて癒しの力があるのだろう。

https://www.instagram.com/p/BkjQLclF2bP/

 

私は休みたかったのだ。休みたいときにそう言える人であってほしいと子どもに願う親でありながら、また自分でそれができていなかった。左肩の痛みは偶然か、去年の夏と同じだった。(身体に詳しい方、左肩の解釈の諸説、教えてください)

 

そして、私は休むことにある程度の罪悪感を持っていることに気がついた。

ミッションを目の前にすると、スイッチが入って、それをこなさずにはいられない。身体は重くて肩も痛いけど、成果を出したい。さらには”ついで人間”の癖が出て、ついでに付随する他のミッションを見つけては、全てをこなそうとしてしまう。

「さすがミッションスクール出身」という夫のギャグにウケつつ、信心深くない私は今になってミッションスクールの”ミッション”の意味を理解した気がする。

 

育児と自由業を始めて6年、「仕事と休みの時間を自分で決めることが幸せに生きるミソ」だと気づいてはいた。お金についての考え方が変わったことは以前にも書いたが、週4~5日、5時間労働を基本としている。(上の子迎えが14:30)

なにより育児はハードな肉体労働で、私は精神面がかなりヤられる。休みたいときに休めるようになろう、という趣旨でこれを書いているが、子どもがちょろちょろしているとマジで休めない。このブログで何度も書いているけれど、子どものいのちに責任を強く感じる人ほど、子どもが物理的に一緒にいると心身が休まらないと思う。土日に仕事をすることもあり、保育園のおかげで月曜はやっと休息というペースになりつつあったが、先週はタスクが多く、それさえもできていなかった。(と、ついついリーズナブルな理由を提示して休む正当性を示そうとする癖もある。)

 

休みたいときに休まないと身体と心は乱れる。「自分は(休みたいのに我慢して)がんばっているのに、あなたは楽していいわね、、、」と。家族間や会社内での元凶だ。

(我慢して)の部分に自分自身で気がつかないほどに、「労働はエラい」と思い込んでいる人は多いのではないだろうか。誰がみても”労働”とされる行動をしていれば、エラい。認められる。

しかし、なんのための労働か。それは幸せに生きるためである。

幸せであるためには好きなことをする。そのうちのひとつに休むことを、選択肢として持っていたい。働くこと、遊ぶことも同様に。

 

さらに、休むペースはひとそれぞれであることも理解したい。2時間働いて4時間休む必要がある人もいれば、休みも遊びも仕事もボーダレスなエネルギー体もいる。

様々な局面で「寛容な社会」について議論がなされるが、まずは自分自身の心身を感じて休みたいときに休むことを選択できること、そして各々の休みのペースが違うことへの理解は重要なファクターだと思った。

 

なお、畳は無事に取り出され、イベントも成功。倉庫は片付かないまま。私の体調はとても良い。

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