nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

「現金稼ぎのための時間」が減ったことについて

先日、夫がパーマカルチャーデザインの勉強に1週間家を空けていたので、前半は実家へ帰り、後半は中高時代の友達2人が我が家に3泊して帰って行った。私たち3人の共通点は「現金稼ぎのために割く時間」が多くないことだった。それぞれの経験を経て、今はそういう暮らし方を選択している。

 
私は東京のビジネスウーマンから離脱して6年、未来的なおカネ観に考えが変わった。豊かさを体感した結果とも言える。これは私個人だけでなく、日本のミレニアム世代以降の時代観でもあると私は信じている。

seikatsusoken.jp

 


そもそも平和な時代の日本に、経済的に不自由のない家庭に生まれた私が、字のごとく食べ物に困らない家に嫁に来た。スーパー仕事量をこなせるお義父さんは家庭菜園レベルでない量の野菜を作る農民である。且つ、アサリや牡蠣、魚類、浜や山から野草など、半島の恵みをとってくる狩猟採取民でもある。さらにそれを方々に配っては、お返しに我が家になさそうな肉類やお菓子などをもらってくるわらしべ長者なのだ。

 


有難いことである。感謝している。

実際、お義父さんがもらって来たパンをかじりながらこれを書いている。

 


と同時に、この家の食材が多すぎる問題にも派生していると私は感じている。人によって感じ方や価値観は違う。戦中生まれで、サツマイモとムギしかできなかった時代を生き抜いて来たお義父さんと同じであるはずがないという前提で話を進める。

その問題とは、たくさんの食材の利用のための労力や電力などのエネルギーが余計にかかることである。家族で楽しむ以上の量があるためだ。何事もtoo muchはよろしくない。いのちが雑に扱われがちになる。お義父さんの仕事量はすごいし、実際おかげで腹を満たしてもらっているのだが、一例として、それで忙しくなって、お義母さんと喧嘩になったりする。だったら要らない、お金で買えばいい、とも思える瞬間がある。豊かでなんでも買える現代において、自給自足とは思想であるが、所詮趣味でしかないといつも思う。

 


今私がやっていることのほとんどが「ここにある豊かさの祝福」であり、その裏側は「豊かすぎるという問題への対峙」である。

 


あるもので工夫して料理し、家族で夕食をともにする。

他人の気持ちを理解して平和的に暮らせるようにNVCを勉強する。

お義父さんが植えていい感じに生長した梅の木から梅の実をとって商売する。

元の屋敷があった荒地を整備し、遊ぶ。人に解放する。竹やタケノコを利用する。

ミニマムなヘアケアについて探求する。

先祖代々暮らして来た土地の手入れをして、ノーローンでセルフビルドで家を建てる。

新しく服を買うのを3回に1回はやめて、倉庫から出て来た布やお古で服を作る。

地元の地引網で余った小魚を魚醤にする

ゴミ問題について意見し行動する。

そして、ここでは余っているのに、どこかでは食べ物に困る人たちがいるという事実に胸を痛め、無駄のない、適材適所な世の中の実現に関心を持っている。

 

https://www.instagram.com/p/BjGgLsdFBCS/


現金稼ぎに時間を使うのではなく、上記のような、あるものを活かすのに時間を使っている。もちろんその中で対価として現金をいただくことはあるし、現金がひとつの感謝や縁の表現であることも理解している。ただ、独身の、サラリーマン時代とは大きく時間とおカネの捉え方が変わった。

 


第一に、親になり、子供に時間を奪われるっ(@口@;)と感じるほどに、時間の配分の重要性を痛感したから。同時に、在宅自営で同じような(というか私の元となる)仕事観の夫と一緒に子どもを見たり、親と食卓を囲んだりしていると、いかに「同じ時間」を過ごすことが家族にとって大事かわかる。例えば夫が、義父が、どんな仕事をしたかなんて、同じ時間を過ごさなければ想像もつかないから。「同じ時間を過ごしていても、人によって視点は違う」ということにも深く気づいた。それだけどう時間を使うかは、誰かと生きるにあたり、重要な選択なのである。日本人の労働時間は長すぎると思う。

 


また、サラリーマン時代、私は営業あがりの事業責任者であったため、明らかに「現金を多く稼げる」ことは大きな評価のひとつであり、そこをクリアできなければ会社にはいられない気がしていた。事業の売上や利益を大きくし続けるという当たり前感をプレッシャーとして受けつつ、ビジネスは社会問題を解決する手段という大義からすれば矛盾するとジレンマを感じており、それを嘆いては、どう説明すれば会社的にも筋がとおるのか、わからなかった。(今や無理に売上アップを目標にしないと言う事業部長が出てきているらしいが)

 


同じように、国の指標としてのGDPの成長が目標に掲げられていることも理解できなかった。もう十分豊かなのに、毎年経済的に成長しなくてはいけないの?人口も減っているというのに?中国に抜かれてなにがいけないの?

 


社会制度としてのベーシッックインカムに興味をもっており、ルドガー・ブレイグマン「隷属なき道」を読んだら、痛快だった。GDPでは、2時間働いて3000円を稼ぎ2900円の服を買い足せば両方が評価されるが、穴の空いた服を2時間かけて自分で直す行為についてはゼロ評価である。また、イノベーションにより労働力が削られると、その分GDPはマイナスになる。(そのようなイノベーションを評価できない)なのに、金融商品のような金で生んだ金は大いに評価される。それが、経済界の目標や貢献の指標にされているのは明らかに問題であり、時代遅れであることがわかった。

 


またルドガー・ブレイグマンはこうも言う。現代には無駄な仕事が多すぎる、高給な仕事のほとんどが不要だ、と。私も思ってた。みんな自分の仕事は本当に必要で誇れるのかと問いたい。

 

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

隷属なき道 AIとの競争に勝つベーシックインカムと一日三時間労働

 

 


親になり、自営業になり、豊かな土地の恵みを知り、生活に責任を持つようになり、上記のような時間の使い方にシフトしていった。もちろん現金をある程度稼ぐし、使う。お掃除ロボットや各種工具などのハイテクノロジーにより時間を創出するし、アマゾンにはいつもペイしてるし、子どもの保育も外注しているが、GDPに評価されないような仕事も積極的にする。これが過不足なく・心落ち着かせて暮らすために必要な私の時間の使い方になった。

 

春、5年の育休を終了します。

4月から坊やが保育園に行きだした。1歳児クラス。8時半ー16時半。新しい環境に好奇心をもって、順応していく坊やの柔軟性に夫婦共々驚いている。そして助けられてる。同時にムスメさんとの性格の違いを改めて感じる。

 

以前に保育園に入れる選択の背景を書いたが、この4月以降は期待以上の変化があった。改めて私は自分が思い通りになる「空間」「時間」が必要なのだと、身に沁みてわかった。

 

ひとつ発見があった。それは私は子どもといると、一人でいる時に比べ、多くの頻度と強度で「緊張」しているということだ。子どもたちが嫌がらず(ここ大事)すんなりと園に行ってくれた朝、独り身になった瞬間にどっと安堵感が押し寄せる。呼吸が深くなる。肩の荷が降りて身体が軽い。私はひとりになると、とても心が落ち着く。

 

なぜならば、私は子どもと一緒にいると、彼らの命を守りたいという責任を感じ、彼らにとってできる限り最善の選択をしたいと強く願い、行動するから。それに実は疲れていることに気づいた。だから子どもと物理的にはなれる時間は私にとってはそんな育児モードからの休息である。さらに、その時間にやるのは、労働であり、私のやりたいことであり、それ自体が癒しであり、活力の源なのだ。

 

もう一つ気づいたことは、速く動けることの快感である。現代病か、私の性格か、速く考え、速く動くのが快感なのである。その波に乗るとエネルギーの流れのようなものができて、心身が健康になる。まさに「フロー状態」とは言得てる。子どもは大人に比べると遅い(ことが多い)。ムスメさんはすぐに見えないところに行ってしまう母についていつも嘆いている。それがかわいそうで、彼女のスピードに付き合おうと努力するのだが、私らしくはあれない。

 

大人の時間の確実性に加え、4月は元屋敷でのタケノコ掘りや竹の整理などの大好きな仕事ばかりだった。うららかな春の陽気と相まって、最高に気持ちがよく、心身ともに滞りがなくなった。

https://www.instagram.com/p/Bh6Sjf2FnDN/

https://www.instagram.com/p/BiiTKVnFiwi/

 

慢性化していた腰痛も癒された。子どもといると抱っこのリクエストを断りつつも、受け入れる。10キロと20キロを抱っこにおんぶで、腸腰筋(ちょうようきん)に力の入った(縮んだ)状態が多く、子と離れた時間にそれをゆっくり伸ばす。腰痛は育児の緊張の現れであるように感じた。

 

やりたいことの実現は、精神的にも物理的にも、暮らしをより良くする。思うように世界の変化を目の当たりにする快感と満足、それがまた活力になる。(ワーカホリックの病理?!とも言えるか。)

 

大人だけになった家に帰ってコーヒーで一息つく。ウエコロジーでやりたいこと、元屋敷でやりたいこと、梅林でやりたいこと‥目の前にやりたいことが溢れている。それを思う存分話し、課題をメモし、行動できる。

 

この4月以降で、できたことは多い。長年の夢だった、道具の倉庫もその一つ泣。 セルフビルドやDIYの暮らし方は、時間と場所と道具が要る。それはわかっていても、たくさんの道具が散乱し、片付く場所が定まらないことに、私は気持ちが落ち着かなかった。山積みにされた道具から目的のものを取り出すたびにストレスを感じ、整えたいニーズか明らかなのに、まとまった時間や優先度がなく、それを実行出来ないことにも更に失望した。夫から道具購入の相談を受けても、仕舞う場所について懸念してモノが増えることに対して気が重く、前向きになれないことも多かった。でも今は違う!これでウルスコパレスの増設ver3.0もよりスムーズに進むだろう

https://www.instagram.com/p/BiiyOBMFBo3/

 

子どもたちそれぞれの成長、彼らが安心して通える保育施設と信頼のおける保育士の方々と春のおかげで、私は心身がスッキリして、私らしさを取り戻せた。感謝でいっぱい。毎日保育園にしっかり通う弟の影響もあるかもしれないが、ついこないだまでは雨が降るだけで園に行きたくないとベソをかいていたムスメさんも毎日すんなり登園できるようになり、このブログ上で度々嘆いてきた私の悩みも解消された。それぞれの成長を感じながら、私は自分らしい時間の使い方、自分の挑戦を実行に移せることを心から喜んでいる。心身が滞りなく流れている状態は、愛をも最大に引き出す。子どもと過ごす時間も、穏やかな天気のごとく平和に楽しめるようになった。

https://www.instagram.com/p/BiYmbwzFGzu/

かなり鬱っぽかった3月がつい1ヶ月ほど前だいうことが、不思議なほどに、人生の波は上がったり下がったりを繰り返す。良い時も悪い時もあるのが人生、その波をうまい具合に乗るしかない。そのためには、自分を知ること(このブログやNVCを利用している)自分から変化を起こすことしかない。

 

これをもって、私の5年の育休を終了します。

なぜ保育園に子を託すか

乳幼児の1日の過ごし方をまずは整理する。

 

7時 起床 遊び0.5時間

9時 保育園 7時間(うちごはん0.5+昼寝1時間、遊び5.5時間)

16時 帰宅 遊び1時間

17時半 夕食

18時 遊び1.5時間

19時半 風呂身支度 遊び0.5時間

21時 就寝

 

活動時間13時間のうち、保育園に通わせると家での遊び合計3.5時間

これが保育園に通わせない場合、家で遊び9時間になる。

 

https://www.instagram.com/p/Bd1U29gAlgL/

 

4月から1歳児の坊やを保育園に託すことにした背景について書く。

 

(1)子どもに質の高い遊びをして欲しいから

子どもにとっては遊びが全て。

 

我が家での保育者=親、祖父母

当然、子どもが自分の命を自分で守る判断力がないうちは、保育者が必要である。

 

現状、1日の半分は祖父母に相手してもらっていて、その間に仕事したり「大人の時間」を過ごしている。でも23日続けて丸1日私が相手することもある。

 

この家で、祖父母や夫が一緒にいても、我が子は私を選ぶことが多い。なんせおっぱいついている、最大オキシトシン提供者の、ひょうきんな母だから。私が子どもと遊びたいかどうかに関わらず、お茶飲みたいタイミングで毎日「遊ぼう」はやってくる。

 

子どもの喜ぶ顔が見たい、子どもの気持ちや意思を大事にしたいと思う。が、リクエストされる遊びにつきあうだけでは私はすぐに退屈してしまう。ある時は彼らの期待に応えられて嬉しいという気持ち。でもある時は自分を抑圧して付き合ってやるという気持ち。

 

子どもをよく感じて、子どもとの違いをよくよく感じているが、私は大人である。

 

彼らの命を危険から守る保育者ではあれても、遊び相手としては45分が限界。これが何時間とか、毎日続くと、もうしんどい。ここがプロの保育士や幼稚園教諭との才能の差のように感じる。(もしくは自分の子と人の子は違うという理屈だろうか。)

 

家という環境=生活と仕事場を兼ねている今、家で「本気の保育者」になるにはノイズが多すぎるという理由もある。「子どもと遊ぶことよりもやりたいこと」が出てくるのだ。子の年齢の低さゆえ彼らと一緒にできることにはそもそも限りがあるが、「その中でも子どもと一緒にできそうなこと」をいつも提案してみる。けれど、なかなかうまくいかない。ムスメさんは私の「海行こう」という誘いを3回に2回は断る。私の声かけや場つくりのスキル不足か、うまく子どもをその気にさせることができない。

 

そして私は疲れると、子に動画を見せて過ごさせる。動画がなかった時代に親にならなくてよかったといつも思うほどに、動画に自由をもらってホッとする。だけれども、動画に子守させているのは自分のくせに、罪悪感が募る。「もっとこの子にとって質の良い保育があるはずなのに私はそれを実行できていない」と。

 

人はこれを完璧主義だと呼ぶのだろうか。

そしてこの(1)の要件を満たすために、私は子どもを託す先の保育教育機関の質を問う。

 

 

 

(2)大人の時間(≒就労)が必要だから

 

幼子と1日の大半を共に過ごすことは、誰しもが理想だと思っているだろう。私も理想を追い求めて、家でジジババもいる自然のある環境で、子どももいつつ、できる範囲で仕事しよう、と五年やってきた。が、現実は上記の通り、「子どもとの時間」を「大人の時間」ほど心から楽しめない自分がいる。いや、本気の「子どもとの時間」もあるんだよ毎日合計0.5時間~4時間くらい(ムラあり)。同じく「大人の時間」もあって、こうやって文章を書いて頭を整理したり、ウエコロジーの事業のことをやったり、百姓仕事をやったり、色々出来てはいるんだ。でもこれを5年やってきて、「大人の時間」で得る活力やフロー状態(高度な集中状態)の欠乏症に今なってる。本当にこれは深刻で、精神的によろしくない。

 

5年間同じことでずっと成長しようともがいて、悩んでの繰り返し。私は親になるまで成果至上主義的な世界観でしか生きてこなかった。いかに速く、多くの成果を出すか。その過程におけるフロー状態から活力を得て、さらに成果を認められることで重ねて活力を得ていた。そんな私が「ただ在る」ことで幸せになろうともがいているのである。時代の流れも相まって、そういうシフトが必要だと思ってはいる。道半ば。

 

たしかに子どもの世界を私は知った。例えば、子どもが欲しいのは、「歯を衛生的に保つ」という結果ではなく、「自分で歯ブラシを持つ」という行為そのものなのだ。子どもは「ご飯を食べて腹を満たす」という結果ではなく、「スプーンを落として床で音が鳴るかどうか」を確かめたいのだ。

 

子どもをよく感じて、子どもとの違いをよくよく感じているが、私は大人である。

 

「子どもとの時間」においては彼らの世界観を理解する大人でありたいが、私は私で「大人の時間」や自分の活力の源泉が必要なのである。

 

 

(3)外部に保育をお願いするのが精神衛生上良いから

 

上記見てても思うが、深刻に考えすぎ!私は「子どもとの時間」の割合が大きいと自滅するようだ。適度に時間を配分しなくては。もしくは、(繰り返すが)考えることより感謝することなのかもしれないが。

 

子どもが大事だからこそ、ベストな選択をしたいと強く願い、常に理想を求めては、自分にその器がなく、苛立ったり罪悪感を覚える毎日。しまいには「自分のやりたいことを考えないようにする」という抑圧さえ自分にしているのである。

 

この5年あまりに「幼い我が子とこの恵まれた環境を活かして百姓仕事と両立」的な理想にしがみつきすぎて、「育児は今しかない最大のお役目」「地球平和の前に家庭平和」を背負いすぎて、結果、苦しんできたように思う。(まあこれは修行的な道を選んでしまう私の癖でもある。)

 

「全部オキシトシンのせい」にしておこう。子どもは誰が一番オキシトシン出してくれているかわかるから、子どもはそういう人を求める。求められたらそれを叶えようとしちゃうでしょ。それも全部オキシトシンのせい。これからは愛を家庭の外にも伝えて行くフェーズがきた、そう前向きに言っておこう。

 

母が精神的に健康であることが家庭平和のキーだって言われるのは正直しんどいけど実際そうでしょう。たびたび語られる「母が幸せじゃなければ、子は幸せになれない」って言葉はこういう葛藤の後に発せられるのだと思った。

 

 

以上の通り、子どもへのベターな遊び環境の担保、精神的な理由で私は「大人の時間」が必要であり、その時間で社会へ愛を伝えて行くことにしたから、保育園に子を預ける。

 

(深刻!)