nature and tech.

地球平和の前に家庭平和の前に自分平和

場を整えること、気を整えること

シンクに洗い物が残っているのに、料理はじめよう、なんて無理

 
「整えたい」のはもはや私にとって生理的欲求で
身体を整えるのも、散らかった家を片付けるのもかなり気持ちがよい。
これが気を整えていると言うものだろうか?
片付いた後の環境も気持ちがいいし、さらに片付いた後の仕事も気持ちが良い
毎日のルーティーンワークにはうんざりすることもあるけど、新しく収納を作った時や整理整頓の結果、収納ルールを更新する仕事とか、かなり燃えちゃう。
 
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衣替えシーズン「我が家のインデックスルール」更新につきIKEAニトリ?無印?行ってスッキリ!てのは主婦あるあるではないでしょうか。特に家族が増えて初めて迎える秋には一仕事でした。
 
さて、誰もが整った環境は好きでしょう。
欲しいものが欲しい時に見つからない時の時間や労力はほんと無駄。作業に必要なアイテムが近くに揃っていて直ぐ使えると良い。どんな仕事も環境が整っていると、進み方が違うし、丁寧な仕事ができる。これはサラリーマン時代も当然感じていたし、最近夫とビニールハウスを立てながらもそんな話をしました。

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なので原則として場を整理整頓することは正義です。
しかし、人によってその「したい」レベルは感覚で違うということもまた真理。
ロッカー開けると流れ出て来る人とか、デスクに書類が山になっている人とか、それぞれ思い浮かぶ面々がみなさんあるのではないでしょうかw
 
家族の中では私が最も「整理したい沸点」が低い。
私にとっては散らかり過ぎて思考停止になるような机の上で、ムスメさんが「ママ〜これ一緒にやろ〜!」とか言って新しい遊びを始めようとする。その横でなにやら作業を始める夫が今まさに使った道具の置き場に困っている。。
こんなことがしょっちゅうあるわけです。
そのたびに「私散らかってるのに、何か新しいことする気になれないんだよね」と整理整頓という正義の名の下に一人で若干イラっとして、ざざざーーーと片付けちゃうのです。教育上テンポを緩め一緒に片付ける時もあるけど、大部分私が片付けちゃう。そうじゃなきゃ暮らせんわっ!と嘆きつつ、なんだかんだ私も好きでやっている。だから夫からは「インデックスのおみさ」と呼ばれている。
 
でも最近、それって自己満だよね、ということだけでなく、彼らの強みで私の弱みでもある、という視点を得ました。
逆にいうと、彼らは、毎度片付けなくても、仕事や遊びに熱中できるのです!
私ほど、環境に左右されない、今やりたいことにまっしぐらです。カオスの中からのクリエイト!ビッグバン!
 
どうして、そう気づいたかというと、ひとつは最近なにかと忙しく、衣替えが中途半端で家中がごちゃごちゃした状態で数日を過ごさざるをえなかったこと。
 
もうひとつは子ども二人がいっぺんに泣き出すような状況をこの半年過ごしてきて。
4歳ともなると、私とのコミュニケーションの不具合が原因で泣き出すことも多く、大人にとってはそれは理不尽でも、その状況をどうにかして過ごさなくてはならないのです。そこに下の子の鳴き声が加わると、慌てたり、イライラしがちです。
でも、子二人が泣いてアラート出している時とか、フツーに考えて親はやることがたくさんあり。
上の子をだっこして、話を聞いたり、下の子のオムツを替えたり、おっぱいをあげたり。
泣き声のサラウンドという場においても私の中に静けさがなくては、と気を整える訓練中です。
環境が整わなくてもそれにとらわれずに、まず静けさを感じて、今やることをやるということが、イライラを回避できるし、物事を穏便に済ませる良い方法かも、と思い至りました。そういうモードチェンジが必要だなあと。場を整えなくとも気を整えられるという技の体得が。。
 
もっと言えば、戦争とか、災害とかカオスな状況に巻き込まれたとき、環境は理不尽に整わない上に、生命を守らなくてはならないという最重要ミッションをこなすというようなことが、今この地球上に起こっていることも考えてしまう。
片付けが、とか言えるのは、平和な世の、たくさんのモノを持った人間の贅沢な悩みだなあとも。
 
まあ、それが私の生理的欲求だから、これからも片付けはしまくるけどね。
 

「ママじゃなきゃだめ」の苦悩と成長

私の良くも悪い傾向として、仕事モードにハマりすぎる、というのがある。

 

以前にも高度な集中状態フェチであることを書いたのですが、そのおかげで仕事にせよ家事にせよ思いついたことを実現できるのだけれど、親になってからはどうしても子にその集中環境を「分断」されることに毎度ストレスを感じてしまうし、子と過ごす母モードは仕事モードとはだいぶ勝手がちがうので「仕事モードほどの気持ち良さ」を母モードに求めてしまっては自分を苦しめておりました。。在宅自営業を理想とし、今そうなったからこその苦悩でもあるのでしょうが、まだその器がない私。

 

この10月になり、苦悩の9月を経て、親子ともども変化があった。

9月はムスメさんと向き合った月でした。私にとって愛を知る、大事な月だったと振り返ります。。

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弟をいつも大事に思ってくれているムスメさんにかまけて、すっかりお姉さんになったと思い込んで、大人の言葉で説明して、夏休みも明けたという大人の理解で私は仕事モードばかりONで、幼稚園にいきたがらないムスメさんをどこかで煙たがっていた。「幼稚園楽しくない。ママといたい。(泣)」「ママじゃなきゃだめ!!(怒)」ムスメさんは反動で余計にママばかりに甘えたくなるのに、うまくそれを受け止められていなかった。18kgをおんぶにだっこしながら、イライラして「なんでそんなにママなの?!」となってた。

 

幼稚園に行くときは赤ん坊を夫か義父母に預け、車の後部座席で固まって泣いているムスメさんをなんとかその気にさせて、教室まで送って、担任の先生が来るまで一緒にいて、泣きながら別れる‥クタクタでした。

 

でも園では楽しそうにやってますよ、という先生や園のお母さんたちからの声を多く聞き、実際迎えに行っても私に気づかないほど遊びに集中しているときもあるので、もうこれは「園に毎日いくこと」をひたすら応援しようと決めました。(今更~!!!!)4歳になった今、甘えたい気持ちもまだまだあることを大前提として、何かにがんばる、ひとまずは幼稚園というコミュニティの一員になるという経験をさせよう!と泣きながら会議‥

 

できなかったことができるようになる、ほんと些細なことでも、その経験を積み重ねること。それに気づいて一緒に確認すること。

 

真面目に取り組んでなかった出席シールを毎日一緒に貼って、たくさん集まったことを喜び

毎日ムスメさんを園に送った後で今日はどうだったと夫に共有し

嫌だと行っていたけど園に行ってがんばったからと甘いものを一緒に食べたり、博物館へ行ったり、馬になって遊んだり(肉体労働)して「がんばるといいことがあるね」とつぶやき

とにかく甘えん坊で良しとして、たくさん抱っこして

担任の先生がいなくてもバイバイできるようになったことを褒めて

ムスメさんを園に行く気にさせる活動で1ヶ月がすぎていきました。

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するとどうでしょう。10月に入って、ムスメさんがパリッとしだしました。

9月の最終週毎日園に行けるようになり、「幼稚園楽しいかも」と教えてくれた!10月頭の運動会では園での学びを全身で見せてくれて、成長をビシバシ感じました。あれだけ私だけに執着していたのがパパや祖父母とも笑顔で一緒にいるようになり。園でやっている歌を楽しそうに教えてくれるのが可愛い。

 

そこで神タイミングでやってくる例の「草の実会」で園長先生の話しに目から汗が止まらなくなる。。

 

親と子でお互いに関心を持ち合えば大丈夫です。

 

マザーテレサも「愛の反対は無関心」と言い、マリアモンテッソーリも「子どもが成長するには愛が必要」と言い、野口晴哉は「子どもに(一緒にいない間も)気を集め注ぐ」と言います。

私とって親になるということは愛を知る道に入ったということのように思えます。

幼い時から「人(世の中)に必要とされる人間になりたい」という思いが強かったけど、こんなにも母として必要とされちゃうとは思ってもみなかったよ。しかしまずはここから。改めて、地球平和の前に家庭平和。

車に轢かれた獣はご馳走か、ゴミか。

ムスメさんの通園路にある日イタチが落ちていて、次の日はキジのオスが落ちていた!

正確には「ひかれていた」

 

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この辺りでは道でひかれた動物(ロードキル)にとにかくよく遭遇する。

 

わたしも今まではかわいそう!と思うものの車が過ぎるスピードに合わせて避けて通り過ぎるだけでした。避けられない状況では動物たちはアスファルトの上でぐちゃぐちゃにされてしまう。

 

ロードキルに遭遇した場合の積極的対処法、これを実践したのは最近の話。

(1)市役所の環境課に電話する

(2)自分で拾って土の上に移動してあげる

(3)獣によっては、状態が良ければ、持って帰って、食べる

 

2はまだしも、3とか現代人からしたらアブノーマルな域と思われるかもしれないけど、こちらに暮らすようになって街に住んでいたら考えもしなかったことを体験し、私なりの気づきがあるので、ここに書いておきます。

 

(1)市役所の環境課に電話する

市役所の環境課に電話して回収してもらいます。

場所を結構詳細に聞かれるので、それに応えられればOK

 

(2)自分で拾って土の上に移動してあげる

事の始まりは、ロードキルを見るとほっておけず、あまりに状態が悪くなければ、拾って土のあるところに移動してあげる、という友人の話。彼女はいつも車に軍手を積んでる。

 

こないだのイタチは私も初めてそれができた。通い慣れた交通量の多くない道、たまたま積んであったスコップ、まだ綺麗な状態だったからたまたま。でもこの体験は大きな違いになったと思う。

 

園までの往路でイタチを発見し、復路でイタチを移動、翌朝のムスメさんと現場を確認し手を合わせたのでした。

 

(3)獣によっては、状態が良ければ、持って帰って、食べる

そして翌日。2日連続でロードキルを見た私は、車を停めずにはいられず、近くで見ると、今度は本当に綺麗なオスのキジでした。野生のキジってだけで人生で見るのは2度目でした。

頭だけが潰れていて、でも不思議と出血はあまりなく、あまりの美しさにそのまま置いておくには勿体無いと感じ、つまり「食べられないかな」という興味が湧いてきたのでした。

 

鳥は過去に2度さばいたことがあるから、できそう、キジ肉って食べたことない、どんな感じなんだろう。と。

 

同時に私の中の3つの記憶が蘇りました。1つは『かぐや姫の物語』の捨て丸兄ちゃんがキジを仕留めて「今夜はキジ鍋だー」と喜ぶシーン。2つ目は写真家松本茂高さんが庭先に落ちていたスズメを食べたと言っていた話。3つ目は電力もなんでも自給して生きるテンダーさんがロードキルを「わーすげーご馳走だ~」と言ってさばいている衝撃の動画。(それぞれお時間あるときに是非見てほしい)

 

害獣として駆除される野生のイノシシの肉を親戚からよくいただいていることもあり、野生肉は、檻で飼われて、抗生剤を打たれて、遺伝子組換え飼料を食べている家畜肉を食べるよりは健康的で、ご馳走だと理性も言う。

 

さらには昨日のイタチを「おうちにもって帰って」というムスメさんの期待にも答え、生命の教育にも良い機会と感じ、直感的に車にキジを積んでいました。家に帰って旦那さんに見せるといろんな意味で驚かれましたが。

 

そしてさばくまでに一悶着あったのですが、かいつまんで言うと、現代的な生活の中ではわざわざ忙しい時間を割いてまでロードキルを拾ってさばいて食べるのは割に合わない、という判断ができるということ。村のこどもみんなが楽しみにする「ご馳走」ではなく、市の環境課が公共サービスとして回収する「ゴミ」。悪い意味ではなく、先進国民の「衛生意識」は当然ある。ゴミとして焼かれて、また元どおりの綺麗な道路、最悪のケースは車にミンチにされてアスファルトに擦り込まれるという悲劇。どちらにせよ、現代人が日常で「死」の現場をじっと見ることはほとんどない。ということも。

 

いただいたキジ肉は素晴らしく美味でした。

以下は引用

 

(キジ)は、日本固有の種で、日本の国鳥となっています。
日本では古来、キジは最も珍重された鳥肉で、鷹狩りの獲物として貴族に愛好され、平安貴族のあいだでは鳥料理といえばキジを指していたといいます。
雉は、古事記日本書紀に「キキジ」の名で記載があるほか、
昔話「桃太郎」にも登場し、日本人にとってはなじみの深い鳥。
雄は姿が優美で羽も美しく、雌は「焼け野の雉」と言われるように、
山火事の火が巣に迫っても巣から去らずに卵や雛を守ることから、
母性愛の象徴とされてきました。
宮中では中世以前から、新年に「雉酒」を飲む習慣があり、
現在でも宮中の新年祝賀会で「おきじさま」という呼び名で飲まれているそうです。
日本人はキジ肉のおいしさを知っていたのです
「雉も鳴かずば射たれまい」
無用の発言をしたばかりに、自ら災害を招くことのたとえですが、雉は昔から、狩猟の対象にもなっている鳥でした。よく言われる「鷹狩り」では、最上の獲物は鶴。次は雉でした。
「キジを食べれば3年の古傷も出る(膿む)」
キジ肉を食べると精がつくことを例えたもの。動物性タンパクに乏しい昔、冬に栄養価やカロリーが高い肉がキジ肉でした。今では他にも色々な食べ物があるので、意味が薄れてしまいましたが。そして、お隣の国韓国でも!韓国のことわざ。「キジの代わりに鶏」最も望ましい物(キジ) がないならよく似たもの(鶏)で代用するるという意味

その昔、お祭りになると、
あっちこっちの家の「おばあちゃん」が作ってくれた集落の伝統の味。
キジでだしをとるキジそば。
「昔は、今のように牛や豚なんてめったに食べられなんだもんで、
ヤマドリ(キジなど)の入ったそばは、ごちそうだったに」
今では、風味が強いキジの処理法を知っている人は少なくなっています。
宮中のお正月行事「晴れの膳」のお祝い酒として振舞われるしきたりがあります。 
雉は勝利の象徴でもあり、めでたい時期にぴったりのお酒。
スズキヤでも、縁起を担いで、新年のお屠蘇はおきじさまです。
きじの肉をこんがり焼き、コップに入れ、熱燗(日本酒250cc程度)を注いで待つこと5分。
酒が飲みごろの熱さになり、きじの旨みがしみだしてコクのあるうまい酒ができあがり。